蜀犬 日に吠ゆ

2009-07-23

[][][][]雍也第六を読む(その10) 21:47 はてなブックマーク - 雍也第六を読む(その10) - 蜀犬 日に吠ゆ

孟之反、伐らず

 雍也第六(120~147)

132 子曰。孟之反不伐。奔而殿。将入門。策其馬曰。非敢後也。馬不進也。

(訓)子曰く、孟之反、伐(ほこ)らず。奔りて殿す。将に門に入らんとす。其の馬に策(むち)うちて曰く、敢て後れたるに非ず。馬、進まざりしなり。

(新)子曰く、孟之反という人間は、はにかみやだ。敗けいくさの時に殿(しんがり)をつとめた。城門までたどりついた時、急に馬車の馬に策をあてて叫んだ。殿をつとめようと買って出たのではない、こいつらの足が遅かったのだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 殿軍というのは危地に身を置いて、離散しようとする兵をまとめて戦わなければならないので非常に統率力が問われ、しかもうまく帰ったところで全体としてはまけいくさなのだから恩賞も期待できない、という古今東西みながいやがる役回りです。これを評価できるかどうかで君主の器も量れたりします。

 孟之反はその大役をきっちり果たした上で、しかもツンデレという燃えキャラ。

 この戦いの様子は左氏春秋にあると吉川先生がいうので、ちょっと長いですが引用しておきます。哀公十一年、孔子69歳、衛から魯へと帰還した年。

1 十一年春、斉は鄎(そく)の戦の報復のために、国書と高無ヒ*1が軍をひきいて我(こちら)に攻め入り、清(せい)に達した。季孫(季康子)がその宰の冉求に、

 「斉軍が清にとどまっているのは、きっと魯(曲阜)を狙っているためだ。どうしたらよかろう」

と言うと、求は、

 「(三桓のうち)一人(季孫)は国都を守り、二人(叔孫、孟孫)は公に随行して、国境で敵を迎え撃つことです」

 「それはできぬ」

 「境内の近郊に布陣されては」

 季孫は(叔・孟の)二人にこの話をしたが、二人は承知しない。冉求は言った。

 「お二人が承知されぬのなら、国君は出陣する必要はありません。一人が軍をひきいて、城邑を背にして戦っているのに、それに続こうとせぬ者は、魯の人とは言えません。魯(の国都)の卿大夫たちの兵車は、斉の兵車より多数で、(季氏)一家の兵車だけでも優に匹敵できます。心配はいりません。お二人が戦いたがらないのももっともで、政権が(歴代)季氏に握られているからなのです。子(あなた)の時代に、魯に攻め込んだ斉の人と戦えなかったとなれば、これは子(あなた)にとって大きな恥辱。諸侯の列に加われなくなりますよ」

 季氏は冉求に参内の随行を命じ、党氏(しょうし)之溝(こう)で待たせておいた。叔孫武叔(叔孫州仇)が冉有を呼び入れて、作戦についてたずねると、求は、

 「君子には深謀遠慮がおありだが、小人には何もわかりません」

 孟懿子が強(た)ってたずねると、

 「小人は(己れの)才を考えて物を言い、(己れの)力をはかって働くものです」

 武叔は、「この男は、我(じぶん)が丈夫(おとこ)らしくないと言っているのだ」と、退出して兵車を検閲した。右軍をひきいる孟孺子洩(せつ)(孟懿子の子、武伯)には、顔羽が御し、邴洩(へいせつ)が車右をつとめ、左軍をひきいる冉求には、管周父(かんしゅうほ)が御し、樊遅(はんち)が車右をつとめる。季孫が「須(しゅ)(樊遅)では若すぎる」と言うと、冉求は「十分役に立ちます」と言う。季氏には甲士が七千人いたが、冉求は武城の人三百人を直属の徒卒とし、老幼には公宮を守らせ、みずから雩門(うもん)の外に宿営した。五日たって、(孟孺子のひきいる)右軍がその後に従った。公叔務人(こうしゅくぼうじん)(昭公の子、公為)は、これら防衛部隊に出遇うと、涙を流して言った。

 「徴発はしきりで賦税は重い。上の者に計画がなく、戦士に決死の気力がなくては、民は治められぬ。(だが)こんなことを言った以上、吾(わたし)が頑張らねば」

 魯軍は斉軍と郊外で戦った。斉軍は稷曲(しょくきょく)の方から攻めてきたが、魯(の左軍)は溝を越えて進もうとしない。(御者の)樊遅が、

 「溝が越えられぬのではない。子(あなた)(冉求)の命令に信用がないのです。三度(命令を)徹底してくだされば越えます」

と言うので、そうすると、一同、溝を越えて続き、(左)軍は斉軍に突入した。

 右軍の方は逃げ出し、斉の人は追跡して、陳瓘と陳荘が泗水を渡って来た。孟之側は後にまわって(右軍の)殿(しんがり)をつとめたが、(その功を誇らず、曲阜の城門に入るとき)矢を引き抜いて馬の尻を突きながら、

 「馬がなかなか進まなかったもので」

と言った。

 林不狃(りんふじゅう)の隊士が「走って逃げますか」というと、不狃は、

 「誰だって(内心は)走ろうとおもっているのだ」

 「では踏み止まりますか」

 「それが偉いということにはならぬよ」

 そう言って、ゆっくり歩いて戦死した。

 (左)軍は斉の甲士の首八十を獲得し、斉の人は軍の態勢を立て直せない。夜になって間諜が「斉の人が逃げています」と報告し、冉求は追撃を三度請うたが、季孫は許さなかった。

 孟孺子が人に話した。

 「我(じぶん)は(御者の)顔羽には及ばぬが、(車右の)邴洩よりはましだ。羽には気力があった。我は戦いたくなくても黙っていたのに、洩は「車を走らせろ」と叫んだから」

 公為(公叔務人)はお気に入りの小姓汪錡(おうき)と同乗し、そろって戦死した。そろってこれに殯(ひん)礼を加えた(のを不審に思った魯の人に)、孔子は、「(大人並みに)干戈を手にして社稷を防衛できたのだから、殤(しょう)者(夭折者)扱いをしなくてもよい」と言った。

 冉求は斉軍に対し矛を使用したので、これに突入できた。(冉求のこの度の行動について)孔子は、「義に合している」と評した。

小倉芳彦『春秋左氏伝』下 岩波文庫

 いろいろ面白い。

  • 三桓氏の足並みが揃わない
    • 国家存亡の危機でも、自分の被害を出すのはイヤだから野戦にはでない。
    • 魯の国君である哀公がでてこない。ほとんど無視されているのではないか。
  • 冉求が軍師。
    • 徳行で孔門十哲に数えられる男なのに…
    • 知謀68? 軍師なのに…作戦が信用されていません。
    • 戦闘84? スキル「突撃」
    • 士気55? 突撃生高確率33%
  • 公為は…
    • 泣いてはいけないのではないか。
      • 優しすぎることは公子にとって良いことではない。
    • 汪錡は少年でしたが公為とともに葬られた……
      • きゃあきゃあ。夫子は「奴も漢であった」とかいってますが、これはアレですよ。神聖隊。
  • 林不狃
    • 「ゆっくり歩いて戦死した」じゃねえよ! 戦え!戦え!戦え!
  • 孟孺子
    • いいわけよくない。
      • 車右が「逃げろ」といっても、孟孺子が命じれば普通止まるだろう。
  • 孟之反(孟之側)
    • 戦全体としては負けていたわけではなかったのですね。
    • だからこそ、踏ん張って持ち堪える必要があった。
    • 伝令がいれば、冉求の左軍に救援を要請できたのではないか。『白馬の騎士』22章のように。まあ無理か。

*1:不のしたに十