蜀犬 日に吠ゆ

2009-07-27

[][][][]雍也第六を読む(その1419:49 はてなブックマーク - 雍也第六を読む(その14) - 蜀犬 日に吠ゆ

以て上を語るべきなり

 雍也第六(120~147)

138 子曰。中人以上。可以語上也。中人以下。不可以語上也。

(訓)子曰く、中人(ちゅうじん)以上は以て上(かみ)を語るべきなり。中人以下は以て上を語るべからず。

(新)子曰く、普通以上の人間ならば、一流の人物の価値が理解できる。普通以下の人間には、全然分かりっこない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 この条の語上の上は、人を指すか、事を指すかで意見が分れる。しかし中人が主語となっている以上、上は上人と解するのが自然であろう。するとあまりに人間を差別しすぎるようで、面白くない。特に現代向きでないという考えから、多くは事で納めようとする。すなわち中人以下には上等な事柄を話しても分からない、という解釈の方が多く行われる。しかし実際にはそのような心配はいらぬのではないか。中人以下をもって自任する人はもちろん、自から中人のあたりで満足する人もほとんどあるまいからである。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 さて、日和見解釈は私の手元にありますでしょうか。


 中以上の人には上のことを話してもよいが、中以下の人には上のことは話せない。(人を教えるには相手の能力によらねばならない。)

金谷治『論語』岩波文庫

 事で解釈していますが、中人を主語ではなくて客語で取っていますね。差別というか能力段階説。


 天分や学力が中等の人以上の者には上等の高尚な道理を教えてもよいが、天分や学力が中等の人以下の者には上等の高尚な道理を教えない方がよい。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 天分じゃよ(ムッカー)。差別のレベルがグ~ンとアップした感じですね。もう生まれつきのバカにはどんな真理をも学ぶことができないってわけですか。

 中人以下の者に高尚な道理を話しても、これを理会させることができないばかりでなく、又みだりに高尚なことを求めて己の身に適切でないことに意を用いるような弊に陥って、結局は中人以下に終るものである。故に、その力の及ぶ所について教えるのは、自ら研究してしだいに高尚な処へ進ませるようにするためであろう。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 これが日和見でしょうか。だいたい中人以下が「自ら研究して」来るわけないから、中人以下には上ではなくて中を語ってあげるのが教育というものではないでしょうか。夫子は高弟たちと春秋編纂にいそしんでいるというなら、ふさわしい弟子たちもいるでしょうに。


 老先生の教え。(人物を上・中・下に区分したとき)中級以上の者には、高度なことを教えることができる。しかし、中級以下の者には、高度なことを教えることはできない。

加地伸行『論語』講談社学術文庫

 単純明瞭。


 中人とは、中ほどの人間である。陽貨篇第十七の「上知と下愚は移らず」と考えあわせて、孔子には、人間を三種に分ける考えがあったとされる。そうして「以って上を語るべき也」、「以って上を語るべからざる也」、の「上」とは、上知にふさわしい知識、と古注にいう。つまりこの条全体の意味は、中ほど以上の人間には、すぐれたことを語りうる、中ほど以下の人間には、すぐれたことを語っても、しようがない。中人が二度出るのは、上にもつき、下にもつくからである、とやはり古注にいう。

 人間の知的な、あるいは道徳的な、能力には、系列がある、とする考えは、分からないではない。ただし徂徠が、この条から出発して、何でもかんでもと愚民に呼びかけるのは、ばかなことである、というのは、いまの世にあまり適しない考え方となるであろう。なお、班固(はんご)の「漢書」の「古今之表」が、人間を九段階に分けるのは、主としてこの条と、陽貨篇の上知下愚の条に、もとづいてであること、その条で説く。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

 なんだ差別して悪いかと開き直りつつ、いまの世には適しないかも、と。これはお手本のような日和見ですね。一般の読者を相手にする本なのですから、日和見おおいに結構だと思います。


 と言うわけでまとめますと、

  • 上を「上人」で解釈するのが自然であろうという宮崎先生のおっしゃりようは、ははは
    • 事で解釈するからといって差別を隠蔽しようという意図があるわけでもない。
  • 中人を主語で取るのも宮崎先生のみ。
    • 中人がどうこうではなくて、君子が中人に教えるときの心構えをいった章句であるという解釈ばかりですよ、宮崎先生(そこが素敵)。