2009-08-09

■ [筆記][英文学][シャーロキアン]コナン・ドイル 延原謙訳『ドイル傑作集』2 海洋奇談編 新潮文庫 
オビ(orハカマ)の「港を出たら、そこは密室。」というキャッチコピーがいかにもな雰囲気を出していますが、中身に一つも密室物がない!

- 作者: コナン・ドイル,延原謙
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1958/08/22
- メディア: 文庫
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北極海の氷原を走り回り、アフリカ西海岸の密林に上陸したり、×××を××したり。全然閉ざされていない。
- 縞のある衣類箱 The Striped Chest
- 公海上で無人船に遭遇。難破でも、争いでもなく無人になった船にはドン・ラミレス・ディ・レイラの宝箱が。
- 星新一かっつーの。
- しかし、無人船に大きな宝箱といえば、私の世代だともうD.I.O様なんですよね。なのでアラダイス君の推理は飛躍でもなんでもなく、当然ありうると思ってしまいました。
- 公海上で無人船に遭遇。難破でも、争いでもなく無人になった船にはドン・ラミレス・ディ・レイラの宝箱が。
- ポールスター号船長 The Captain of the "Polestar"
- 北極海で氷に水路を閉ざされたポールスター号と、船長の生き様。
- 読みようによっては、妖怪にとりつかれたという話にもなりますね。
- 北極海で氷に水路を閉ざされたポールスター号と、船長の生き様。
- たる工場の怪 The Friend of the Cooperage
- たる工場で次々と起こる殺人事件。従業員たちは悪魔の仕業と信じているが…
- 必ず複数で行動するようにすればいいのに。ミステリの人たちは、一人が好きすぎます。事件が起こってからも。
- 「これでロマンスもありますよ」
- いや、ないだろう。
- コショー鍋。
- ドイル先生は、あまり料理を描写しない?
- たる工場で次々と起こる殺人事件。従業員たちは悪魔の仕業と信じているが…
- ジェランドの航海 jelland's Voyage
- 1860年代の半ば。ヨコハマ商館での事件。
- 幕末ですか。日本の話は後述。
- マキヴォイ死亡。ジェランド死亡。
- なんで?
- 1860年代の半ば。ヨコハマ商館での事件。
- J・ハバクク・ジェフスンの遺書 J.Habakuk Jephson's Statement
- ドイル先生がマリー・セレスト号(名前は変えてある)の謎に挑む!
- そういえばグールド氏の伝記ではホームズが切り裂きジャックを逮捕してましたなあ。そういうのはいいのでしょうか。
- マリー・セレスト号に謎の乗客が割ってはいる。
- 「南部の紳士」の伏線は?
- マーサから黒い石を受けとる。
- この伏線はうまいですねえ。完全に逆方向に誘導されました。
- 航海中の日誌
- これもうまい。だらだらした日常をだらだら記述することでけだるいムードが出ています。もっとも、けだるすぎて読むのを挫折しかかりましたが。
- ゴアリングの野望の王国
- コンスタンティノープル(第二のローマ)がアフリカに! スケールが大きすぎるわりに、リアリティが…
- ドイル先生がマリー・セレスト号(名前は変えてある)の謎に挑む!
- あの四角い小箱 That Little Square Box
- スパルタン号に謎の乗客が割ってはいる。
- 入りますか。
- 小箱には、スプリングとシャッターとがついている。
- 港を出たら、密室か?
- やられた。あのオビのキャッチコピーは、ミスリーディングさせる罠だったわけですな。
- スパルタン号に謎の乗客が割ってはいる。
「ジェランドの航海」における日本の描写。
六〇年代*1の半ばといえば、遠く日本では物情騒然としていた。これはシモノセキ砲撃事件*2のあとのことで、大名事件よりは前だった。当時現地人のあいだでは「トーリイ党」*3と「自由党」とが対立しており、争いの中心点はすべての西欧人の喉を切ってしまうか否かにかかっていた。
コナン・ドイル『ドイル傑作集』2 新潮文庫
シモノセキ砲撃事件を、延原先生は1864年としています。これは、幕府が行った第一次長州征伐に呼応して、イギリス公使オールコックが英仏米蘭の連合艦隊でシモノセキを砲撃し占拠した、いわゆる「四国艦隊下関砲撃事件」のことを指しているのでしょうね。しかし、ならばなぜ、「大名事件」には注がないのでしょう。
私はここで、別な解釈の可能性を考え、ここに披瀝するものであります。
- シモノセキ砲撃事件
- 四国艦隊下関砲撃事件のことではない。
- 四国艦隊下関砲撃事件であるなら、列強の戦果は砲撃にとどまらず占拠に至ったのですから、シモノセキ攻略戦争とかなんとかいいそうなものです。日本側はボロ負けしていて悔しいから「事件」と呼びますが、あちらさんがそう呼ぶかは疑問。
- これは1963年5月の、長州藩外国船砲撃事件のことであると考えると、その点スッキリ。
- 四国艦隊下関砲撃事件のことではない。
- 大名事件
- これは1863年7月の薩英戦争のことか。
- 他にイギリスと事件を起こした大名が思い浮かばないからなのですが。
- ヒュースケンを薩摩浪士が惨殺(1860)
- 東禅寺のイギリス仮公使館を水戸浪士が襲撃(1861)
- 品川のイギリス公使館を高杉晋作、久坂玄瑞が焼き打ち(1862)
- どれも大名とは関係なさそう。(ヒュースケンはアメリカに雇われたオランダ人なので無関係か。)
- 生麦事件は1862年なので惜しくも長州藩砲撃事件より先。しかし、生麦から薩英戦争を一連の「大名事件」とした可能性も。
- 他にイギリスと事件を起こした大名が思い浮かばないからなのですが。
- シモノセキの逆で、薩摩藩と戦争して鹿児島城下を焼き払ったわけですが、勝利にまでは到達できなかったため事件扱いにしたのではないでしょうか。
- これは1863年7月の薩英戦争のことか。
さらに、「トーリイ党」と「自由党」
- 「日本トーリイ党」を日本語に訳せるか?
- 「トーリイ」だけなら「アイルランドの追い剥ぎ」だから簡単ですが、大八島にアイルランドは含まれていませんからねえ。
- ちなみにライバルのホイッグは「スコットランドの裏切り者」。
- ここで難しいのは、イギリスは、そしてドイル先生は1860年代の日本の支配者、つまり王は誰であると認識していたのか、ということ。
- タイクーン(tycoon 大君)が徳川将軍を意味するわけで。
- 今思ったのですが、tycoon って、typhoon とかtyranto とかと近い言葉なのですね。
- タイクーン(tycoon 大君)が徳川将軍を意味するわけで。
- ですから、単純に「王党派」=「尊皇派」ではないのでしょう。
- じゃあ「佐幕」なのかと言われても困ります。「争いの中心点はすべての西欧人の喉を切ってしまうか否かにかかっていた」というのは、「攘夷」「開国」の対立ですから。
- ひょっとして、「イギリス王家を認める」=「トーリイ」なのでしょうか。つまり「開国派」? しかし、日本人にそういう意識の人、いないと思います。しかもトーリイの立場というのは、スコットランド系カトリックのジェームズ2世を容認するものであって、幕末にそんなことで悩む日本人を、想像できません。
- 幕府は開国か、と言われると、実際には開国後も長州の外国船砲撃を認めたり(というか無二念打払令があるので原則的には攘夷)しています。どっちつかずなんですよね。
- じゃあ「王党派」=「尊皇」?
- 尊皇派にしても、「尊皇攘夷」のグループに「倒幕開国」とか「倒幕攘夷」の輩だってたくさん混じっているわけですからまあ王党というわけでもないし、西洋人の首を切るかどうかは人それぞれですよねえ。
- 「トーリイ」だけなら「アイルランドの追い剥ぎ」だから簡単ですが、大八島にアイルランドは含まれていませんからねえ。
というわけで答え合わせ。
しかし、局外者には現地の事情は分かりっこないのだ。もし反対派が勝てば、その間の実情を教えてくれるのは新聞記者じゃなくて、立派な王党が鎖かたびらを着こんで、おのおの大刀を片手に君のところへ現われ、一刀のもとにすべてを知らせてくれるのだ。
コナン・ドイル『ドイル傑作集』2 新潮文庫
というわけで、「トーリイ」は「攘夷」だということが分かりました。しかし、それでいいのか。
■ [書留][儒教][述而第七][宮崎市定]述而第七を読む(その2) 
徳の脩まらざる
述而第七(148~184)
150 子曰。徳之不脩。学之不講。聞義不能徒。不善不能改。是吾憂也。
(訓)子曰く、徳の脩(おさ)まらざる、学の講ぜられざる、義を聞いて徒(うつる)能わざる、不善の改むる能わざる、是れ吾が憂えなり。
(新)子曰く、道徳が身につかなくているではないか。学問が進まぬのではないか。正しいことを知りながら同調せぬことはないか。悪と知りながら改めずにいることはないか。これらのことを私はいつも内心警戒しているのだ。
宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫
ですからこれは逆(本当は裏?)にすれば日々精進するときの心構えとなるのですよね。曰く、
- 道徳を修養すること
- 学問をつづけること
- 正しい場所に身をおき、正しい意見に賛成すること
- 悪を改めること
申申如也、夭夭如也
述而第七(148~184)
151 子之燕居。申申如也。夭夭如也。
(訓)子の燕居するや、申申如たり、夭夭如たり。
(新)孔子は自宅で休息している時は、のびのびと屈託なく、うきうきと楽しそうに見えた。
宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫
家に帰ればリラックス。もちろんのこと心の欲する所に従って矩を踰(こ)えずですから、「やりたい放題」というわけではないでしょう。また、顚沛にも必ず人とともにあったことでしょうが、孔子の儒というのは規律を崇めるのではなくて、状況に応じた徳の道なのですから、くつろいだ時にはくつろいだ仁の実践があるということなのでしょう。