蜀犬 日に吠ゆ

2009-08-17

司馬光

[][][][]述而第七を読む(その6) 21:51 はてなブックマーク - 述而第七を読む(その6) - 蜀犬 日に吠ゆ

憤らざれば啓せず

 述而第七(148~184)

155 子曰。不憤不啓。不悱不発。挙一隅。不以三隅反。則不復也。

(訓)子曰く、憤(いきどお)らざれば啓せず、悱(ひ)せざれば発せず。一隅を挙げて、三隅を以て返さざれば、復たせざるなり。

(新)子曰く、情熱がないものは進歩しない。苦しんだ後でなければ上達がない。四隅の一つを教えたら、あとの三つを自分で試してみるくらいの人でなければ、教える値打ちのない人だ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 従来の注釈は、啓も発も教師の側からヒントを与える意味に解する。しかしそれでは第三句以下と全く重複し、いかにも意地悪る教師の印象を受ける。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 実際に、実りある教育を行おうとするなら、理想的なのでしょうけれども。「日暮れて道遠し」*1ですから、どうしても知識伝達の供給が、需要を上回ってしまうのが現実ですよね。


以下妄想


 母里は、学生たちの末席に座って昂揚した気持ちでいた。孔子の門弟になって、これほどうきうきしたのは初めてかもしれない。

 それは何故かというと引け目である。こうして並んで孔子の話すのを聞き続けてはいたが、母里は孔子から何かを学んでいるという気がしていなかった。先輩たちのように気のきいた質問をすることができなかったからである。孔子の言葉は深みがあり、多くの含蓄があるので、うかつなことを質問すれば先輩たちの笑いものになるかもしれない、現に子路や宰予など、幾たびもそういう質問で子にたしなめられている。自分のようなにわか弟子が、僭越にも質問して、さらに恥をかくというのではいたたまれない。そういう重いがあったのである。


 しかし、孔子は「束脩を行う以上の者は」という話をした。孔子の言葉はしごく単純に思えてその意味は深遠、である事が多いが、この言葉は、単純な話であるように母里には思えた。しかし、そのことについて質問した弟子はいなかった。であれば、このことを話題にすればいいのかもしれない。夫子から直接にお言葉ももらえるし、先輩たちの前で面目がほどこせるかもしれないぞ……、母里の鼻孔は自然に大きくなった。孔子が何を話しているのかはもはやほとんど聞こえない。母里はタイミングをはかることにだけ気を回した。


 しばらくして、孔子の話は一段落したようである。言葉がとぎれ、部屋はしばしの静寂となった。こうして弟子たちに考える時間を与え、教えが行き渡ったと感じたところで孔子は席を立つ。ゆっくりと視線をめぐらしている孔子に、母里は立ち上がり声を発した。

――先生、教えていただきたいことがあります。

 孔子はゆっくりと母里のほうに顔を向け、うなずいた。母里は、興奮していることを悟られないよう、つとめて明るく、むしろ同輩に軽口を叩かんばかりの風を装って、しかしあくまで礼儀正しく言葉を発した。

――先生は先ほど、束脩以上を納めた者には直接教えを下さるとおっしゃいました。私は、礼にのっとり入門してから、直接の教えを受けるということがありませんでした。この際ですから、何かお教えいただけたら、と思います。

 夫子が自分で言ったことなのだから、きっと何かわたしの事を言ってくださるだろう、母里は心のなかで考えた。とにかくにも堂々と夫子と対話できるのだということを先輩たちに見せてやればよいのだ。

 孔子は、じっと母里を見た。視線に耐えられず母里は顔を伏せた。なんといって下さってもいいのに、どうして夫子はもったいぶるのだろう。


――おまえの問に、こたえてよいかな。

 孔子は、短く聞きかえした。母里は、何かへたくそな聞き方をしてしまったろうかと思い直し、そんなことはないはずだと自分に言いきかせて再び声を出した。

――お教えを下さい。


――憤らざれば啓せず、悱せざれば発せず。

 孔子はやはり短く、ぶっきらぼうともいえる態度でこれだけ言った。そうしてあとは黙って弟子の顔を見ている。

――何ですって……?

――聞きとりにくかったかね。憤らざれば啓せず、悱せざれば発せず。それとも、難しいかな?

 いくぶん意地悪に聞こえないでもない口調で、孔子は繰り返した。


 「不憤不啓。不悱不発。」言葉の意味が分からないわけではない。しかし今、自分は質問をしたのだ。不憤でも不悱でもないはず。なのにどうして、夫子はこんなことを言うのだろう。母里は頭が混乱し、座席のうえに突っ立ったままでいた。

――まさにいまのお前のことだよ、どうしていま、私に質問しないのかね?

 しばらくして孔子がつづけた。

――お前が最初に質問したのは、「質問のための質問」だ。私の答えが、おまえの知っているような範囲に収まれば、お前は「答えのための答え」を受けとったつもりになっていただろう。しかしその問答は、お前を進歩させることはあるまい。自分の頭のなかでこしらえた都合のいい世界に満足するだけじゃろう。

――自分のちっぽけな知識の世界で満足してはいかん。心のなかに、もっと精進したいという気持ちがあって、それが体の中からいまにも吹き上がりそうである、そういう人間であって、ようよう成長がみこまれる。

――先生、お話しはよく分かりました。今後そのように勤めますので、よろしくご指導下さい。

 母里はあわてて遮った。こんな恥さらしの状況からははやく逃げ出したかった。

――今後……?

 孔子は瞼を下げて、冷たい視線を送った。

――一隅を挙げて、三隅を以て返さざれば、復たせざるなり。という。お前がのんびりするのは勝手だが、学びの機会はそういつでも転がっているわけではないぞ。

 そうして作法を守り、部屋から退出した。弟子たちもつぎつぎと去っていくなか、母里は憮然として立ちつくしていた……

    (――「わが論語物語」の中――)

*1:伍子胥というより徒然草一一二段の感じで