蜀犬 日に吠ゆ

2009-08-24

シャビエル

[]シャヴィエル 20:56 はてなブックマーク - シャヴィエル - 蜀犬 日に吠ゆ

 イエズス会士フランシスコ・シャビエルのつもりでしょう。

 「たくさん」といったわりには、これでおしまい。もっとかいたような記憶がありますが、まあ捨てたのでしょう。今回も、これでクリアファイルが一つ空いて使えるようになりました。


[][][][]述而第七を読む(その11) 22:29 はてなブックマーク - 述而第七を読む(その11) - 蜀犬 日に吠ゆ

仁を求めて仁を得たり

 述而第七(148~184)

161 冉有曰。夫子為衛君乎。子貢曰。諾。吾将問之。入曰。伯夷叔斉。何人也。曰。古之賢人也。曰。怨乎。曰。求仁而得仁。又何怨。出曰。夫子不為也。

(訓)冉有曰く、夫子は衛君を為(たす)けんか。子貢曰く、諾。吾れ将にこれを問わんとす、と。入りて曰く、伯夷、叔斉は何人ぞや。曰く、古の賢人なり。曰く、怨みたるか。曰く、仁を求めて仁を得たり。又た何をか怨みん。出でて曰く、夫子は為(たす)けざるなり。

(新)冉有が子貢に相談した。先生は衛君の味方になって助力されるでしょうか。子貢曰く、よろしい、私が伺ってみましょう。奥に入って孔子に尋ねた。伯夷・叔斉はどういう人物ですか。子曰く、昔の賢者だ。二人は別の兄弟に君主の地位を譲って亡命しましたが、そこには言うに言われぬ不満があったのでしょうか。子曰く、仁の理想に従って実践したことだ。何の不満が残るものか。子貢が退出して冉有に言った。先生は衛君を助ける気がない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 この話も複雑。


 時の衛公は先に出奔亡命した父、前衛公と位を廻って紛争中であった。伯夷・叔斉の亡命も実は本心からではなかったのではないか、と子貢が孔子に尋ねたのである。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 とある宮崎先生の記述は、いくつか疑問があります。まず、ささいなことから。

「衛君」は衛公か

2 夏四月丙子、衛侯元、卒ス。

「哀公二年」小倉芳彦『春秋左氏伝』下 岩波文庫

 とありますから、衛君は封建の格として侯爵ということになりましょう。諸侯は「王でないから公」というようないい方もありといえばありなのですが。

 (ちなみに衛侯元というのが霊公で、南子といちゃいちゃしたり、南子の愛人宋朝を国に呼んで南子が愛人といちゃいちゃするのを黙認したりとむちゃくちゃした人です。)

前衛公とは誰か。

 衛君は出公輒であるのはその通りのようです。どの本でも共通していました。根拠は書いていないので確かめようがありませんが、まあ問題ないのでしょう。霊公の孫、大子蒯聵(かいがい)の子。

 で、霊公の大子が出奔亡命したいきさつは宋朝の美を見てください。大子蒯聵(かいがい)は結局宋に出奔亡命します。

 そして、先ほどの春秋の記述にありますように、霊公が卒(しゅっ)します。左氏の伝文はこうついています。

2 以前に、衛侯(霊公)が郊外に出遊して、(庶子の)子南(公子郢(えい))が御者をつとめたとき、「余(わし)には嫡子がいない。お前を後嗣に立てようと思う」と公が言ったが、子南は返事をしなかった。しばらして重ねて同じことを言うと、子南は答えた。

 「郢(わたくし)には社稷(の祀り)を嗣ぐ資格はありません。どうかお考え直しください。堂上には君夫人(おくがた)がおられ、堂下には卿・大夫・士が控えており、(これとご相談下さい)。せっかくの仰せですが」

 この年の夏、衛の霊公はなくなり、夫人が「公子郢を大子とせよ。先君の命である」と言うと、子南は答えた。

 「郢(わたくし)は他の公子がたとは(母親の身分が)ちがいます。それに先君は吾(わたし)の見守る中で亡くなられたので、もしそのような命があれば、郢(わたくし)が伺っているはず。それに亡命中の方(大子蒯聵(かいがい))の子(むすこ)の輒(ちょう)がここにおられます」

 そこで輒を後嗣に立てた。

「哀公二年」小倉芳彦『春秋左氏伝』下 岩波文庫

 これが衛侯(出公)。中国の場合は諸侯が卒してもその年の間は改暦しませんので、即位は次の正月となるのが普通です。

 一方、宋に出奔した大子蒯聵は、そのまま大子と呼ばれて晋の支持を受け、陽虎を参謀とし(怖)、出公が後嗣となった二ヵ月後の六月には衛の国都の北に位置する戚のまちに居坐ることになります。

 簡単にまとめると、青空文庫の中島敦『弟子』になります。

 十年来、衛は南子夫人の乱行を中心に、絶えず紛争(ふんそう)を重ねていた。まず公叔戍(こうしゅくじゅ)という者が南子排斥を企(くわだ)てかえってその讒(ざん)に遭って魯に亡命する。続いて霊公の子・太子※(「萠+りっとう」、第3水準1-91-14)※(「耳+貴」、第4水準2-85-14)(かいがい)も義母南子を刺(さ)そうとして失敗し晋に奔(はし)る。太子欠位の中に霊公が卒(しゅっ)する。やむをえず亡命太子の子の幼い輒(ちょう)を立てて後を嗣(つ)がせる。出公(しゅつこう)がこれである。出奔(しゅっぽん)した前太子※(「萠+りっとう」、第3水準1-91-14)※(「耳+貴」、第4水準2-85-14)は晋の力を借りて衛の西部に潜入(せんにゅう)し虎視眈々(こしたんたん)と衛侯の位を窺う。これを拒(こば)もうとする現衛侯出公は子。位を奪(うば)おうと狙(ねら)う者は父。子路が仕えることになった衛の国はこのような状態であった。

no title

 ですから、大子蒯聵は即位した記述がないので「前衛公」はおかしいような気がします。むしろ次の荘公になったのに。


どのタイミングで冉有は子貢に問うたのか。

 おっと、中島敦の子路が衛に就職してしまいました。最終的にはこの大子蒯聵がひそかに衛に戻り、クーデタを起こそうという争いの中で子路は纓(冠の紐)を切られてしまうのですけれども、大子蒯聵の出奔(定公14、BC496)、出公即位(哀公3、BC493)、伯姫(大子蒯聵の姉)のクーデタ(哀公16、BC479)まで実に十七年。子路の就職がどのタイミングなのかはよく分かりません。孔子略年表を見るに、BC497からBC484まで二度目の遊説。春秋では、BC484、衛にいた孔子が大夫孔文子から大叔疾を攻める相談を受けたが魯から呼び戻されたとあるので、この頃は孔子も衛の国政にある程度参与していた可能性があります。

 子路の就職先も、孔文子の子である孔悝(かい)ですし。


 とすると、冉有がいつこの質問を子貢にしたのかによって意味合いは変わってきそうですね。衛に行く前であるとするとたんなるスキャンダラスな興味で話していた。衛にきてからは、孔子自身がこの権力闘争に加わるのかを尋ねたかった。衛を去った時には子路が就職していたので、そのあとであれば子路の身の上を心配してのことであったと考えられます。孔子と子貢の、たとえ話での腹の探り合いだけでは、いかんとも推測がつきません。


伯夷叔斉のたとえ話

 これが本題。

 「伯夷叔斉」は、位につくものの僭越を恥じた故事です。これを、怨みなく仁を得たとするのですから、ここから考えれば孔子は出公の即位を僭越としていたことが分かります。春秋左氏伝の経文にも、蒯聵が「衛ノ世子」と出てきます。亡命中とはいえ、しかも南子(傾城といいますか毒婦)の害を除こうとして失敗しての出奔ですから、道義的に恥ずべき部分もないはずなのに、その兄弟や、子や、家臣たちは、呼び戻しもしないで一世代とばした出公を認めてしまいました。仁というべけんや。礼というべけんや。

 伯夷叔斉の故事にならえば、霊公の後継者指名(公子郢)は間違い、逆に郢が辞退したのは礼にかなった振る舞いといえるでしょう。しかしそのあとの公孫輒の指名も、また間違いであり、輒自身も、これは辞退するなり、それがかなわなければ首陽山に隠れ住むくらいの覚悟があるべきであったことになります。家臣からの嘆願や一族の都合などを斟酌して即位に同意したのでしょうけれども、仁義の道からははずれた行いであったということになります。