蜀犬 日に吠ゆ

2009-08-29

[][][][]述而第七を読む(その15) 20:52 はてなブックマーク - 述而第七を読む(その15) - 蜀犬 日に吠ゆ

天、徳を予に生ぜし

 述而第七(148~184)

169 子曰。天生徳於予。桓魋其如予何。

(訓)子曰く、天、徳を予に生ぜしならば、桓魋、其れ予を如何せん。

(新)子曰く、もしも天が私に価値ある行為を期待しているならば、桓魋ごときが何の害を私に加え得よう。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 『史記』に記事があるということで、吉川先生の本より引用。

 この条は、「史記」の「孔子世家」によれば、孔子が、宋のくに、すなわち、いまの河南省商邱県で、迫害を受けたときに、発せられた言葉である。

 魯の哀公三年、六十歳の孔子は、このくにを通り過ぎ、弟子たちと、大きな木の下で、礼の儀式の練習をしていたが、宋の重臣で、司馬の位にあった桓魋なる者が、くわしい理由は不明であるが、孔子を殺そうとして、その木を、根こそぎに、抜いた。孔子がそこを立ち去るとき、弟子たちが、「以って速やかに去るべし」、はやくお逃げなさい、といったのに対し、孔子が、この言葉を吐いた、と「史記」には記す。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

 なお、桓魋は、この事件のころには、宋の景公の寵臣であったが、のちその寵におぼれ、謀反をおこすにいたることが、「左伝」に見える。また、のちの顔淵篇第十二に見える司馬牛は、この人物の弟である。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

 孔子が自らの使命を達成する確信を持っていたことは、子罕第九にあります。

 子、匡に畏る。曰く、文王既に没したれども、文茲(ここ)に在らずや。天の将に斯の文を喪(ほろ)ぼさんとするや、後死の者、斯の文に与(あず)かることを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人其れ予(わ)れを如何。

金谷治『論語』岩波文庫

 夫子は、怪力乱神もそうですが、天命や天道といった抽象概念に関してもほとんど語ることはありませんでした。しかし、自らの使命はきちんと認識しています。それは何か。「周礼」という、実際に世の中をよくしてゆくための文明文化が、中国には残されている、それを根拠とするのだということが、子罕第九に見えます。それにくらべて、桓魋ごときは、ほんとうに桓魋ごときでしかなかったのでしょうねえ。


 『孔子暗黒伝』はこの桓魋の難から話が始まりますが、いきなり大木を引き抜いて振りまわすという怪力は、超常の力としか言いようがないですよ。さすがの子路も防戦一方で夫子を逃がすのが精一杯。


吾爾に隠すことなし

 述而第七(148~184)

170 子曰。二三子以我為隠乎。吾無隠乎爾。吾無行而不与二三子者。是丘也。

(訓)子曰く、二三子は我を以て隠すと為すか。吾爾に隠すことなし。吾は行うとして二三子と与(とも)にせざるものなし。是れ丘なればなり。

(新)子曰く、各々方は私が知識の出し吝(おし)みをしているとでも思っているかね。私はお前たちに匿(かく)していることは何もない。私の行動はいつも各々方と一緒にしない時はない。だからいつも諸君が見ているありのままの私なのだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 「二三子」を「各々方」は、すこし堅苦しいような気もします。社会の木鐸の時は、封人が孔子の弟子たちに呼びかけたのですから、孔子が弟子たちに話しかける時はもうすこし、「キミたち」くらいでいいのではないでしょうか。


 この章句は、おそらく雑談か何かで弟子たちが、孔子が人によって教えることを変え*1たり、あるいはサボっている人には何も教えてくれなかったりなので、冗談交じりだった可能性もありますが、「ぼくらには教えてくれないのですか」とかなんとか言った、その返答でしょう。

 教育は、もちろん言葉で行う部分が大部分ですが、そうではない部分もあります*2。そうして、そうではない部分が、理論では再現できない、教育のふしぎな部分ということになるのでしょう。

*1:先進第十一、子路と冉有に、聞いたらすぐに行うかを教えた例など

*2:「やってみせ,言ってきかせて,させてみせ,ほめてやらねば,人は動かじ」山本五十六