蜀犬 日に吠ゆ

2009-09-16

[][]藤原浩『宮沢賢治とサハリン』ユーラシアブックレット 東洋書店 23:34 はてなブックマーク - 藤原浩『宮沢賢治とサハリン』ユーラシアブックレット 東洋書店 - 蜀犬 日に吠ゆ

 妹としは大正11年(1922)11月に病没。翌年7~8月、賢治は花巻農学校の生徒の就職斡旋を依頼するため、樺太の王子製紙細越氏を訪ねます。旅程は、七月三十一日発。花巻~青森、青函連絡船、函館~稚内、稚泊連絡船、大泊~栄浜。栄浜に八月四日到着。花巻へは八月十一日帰還。

 この本は、作者が文学研究者というのではなくて、むしろ『地球の歩き方』執筆者としてロシアを旅した経験と鉄道趣味から記述されているのがおもしろい。もちろん先行の文学研究もきちんと踏まえていて、そういう点からも簡便に読むことができます。

 研究者はこれまで、サハリン紀行にさまざまな意味を見いだしてきた。総じて、この旅は単なる”鎮魂の旅”ではないと結論づけている。しかしどの説も非常に難しく、いち読者の理解としては別に”傷心旅行”でもかまわないと思っている。賢治自身が『春と修羅』を通して読者に望んだ心象も、そのようなものだったのではなかろうか。

 しかし一方で、妹の死に悲しみ狼狽し、傷ついた一人の人間であると同時に、賢治は作家である。表現者である。『永訣の朝』などトシの臨終に際して詠まれたとする詩群も、実際には半年以上ものち、つまり”サハリン紀行”の時期に詠まれた―作品として形にした―ものだともいわれている。そういう意味において、サハリン紀行は、トシの死という人生最大の辛苦を経た賢治の、表現者としての”けじめ”であり、”総括”でもあった。人間として、表現者として、乗り越えるべきものを越えてゆくための旅であった。その両方の面において、私たちもまた、賢治を理解するうえで、”サハリン紀行”は乗り越えていかなければならない大きな壁でありつづけている。

 そして、この旅が名作『銀河鉄道の夜』のモチーフになったという考えは、今では定説ともなっている。『銀河鉄道の夜』は、賢治が樺太への旅を終えたあと書き始められ、残りの人生を通して書きつづけ、書き直しながら完成に至らなかった。最果て行きの切符を持って、トシの魂を抱きながらいくつもの挽歌を詠んだその旅は、死者の魂を乗せて天上を走る列車の物語として結実する。

藤原浩『宮沢賢治とサハリン』ユーラシアブックレット 東洋書店

 というわけで、銀鉄ファンでありながら伝記を読むのをサボっていた私にとってはまさに絶好の本でした。


 連帯運輸が開始されたことで、栄浜駅でも東京までの切符が買えるようになった。東京からの荷物が規則正しく届いた。宮沢賢治という、樺太に縁もゆかりもない若者が流れつくように―といっても決められた時刻通りに―たどり着いたりもした。そして、この風変わりな若者によって、栄浜は、”銀河鉄道”の始発駅へと仕立て上げられ、賢治世界”イーハトーブ”の最北端となった。今では、この何もない田舎町が、日本人ツアー客が必ず立ち寄る、サハリンに欠かせない観光スポットとなっている。

藤原浩『宮沢賢治とサハリン』ユーラシアブックレット 東洋書店

 栄浜*1が銀河ステーションとは知りませんでした。たしかに銀河鉄道は、北十字からサウザンクロスに向かって行きました。考えるてみると不思議ですね。花巻のふるさとでトシ子を送った賢治は、トシ子の面影とともに北を目指した……というほうが分かりやすそうですが、そうではなかったのでしょうか。

そして、カムパネルラは、円い板のやうになった地図を、しきりにぐるぐるまはして見てゐました。まったくその中に、白くあらはされた天の川の左の岸に沿って一条の鉄道線路が、南へ南へたどって行くのでした。

鎌田東二『精読 銀河鉄道の夜』岩波現代文庫

 ついでに、銀河鉄道の駅を書き出しておきます。

  1. 銀河ステーション
  2. 白鳥
  3. 南十字

[][][][]泰伯第八を読む(その4) 20:21 はてなブックマーク - 泰伯第八を読む(その4) - 蜀犬 日に吠ゆ

能を以て不能に問い

 泰伯第八(185~205)

189 曾子曰。以能問於不能。以多問於寡。有若無。実若虚。犯而不校。昔者吾友。嘗従事於斯矣。

(訓)曾子曰く、能を以て不能に問い、多きを以て寡(すくな)きに問う。有れども無きが若(ごと)く、実てるも虚しきが若し。犯さるるも校せず。昔は吾が友、嘗て斯に従事したりき。

(新)曾子曰く、自分でできると思っても、誰彼となく忠告を聞いてまわり、自分が知っていると思っても、知りそうもない人に意見を尋ねる。才能があっても匿して外に現わさず、知識が充実しても謙遜して、空虚なものとちがわない。喧嘩を吹きかけられても、取りあわない。私の若い頃、友達と一しょにこういう理想をかかげて修養に励んだものだったが、その昔が懐かしい。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 「吾が友」は、顔淵であるとするのが漢の馬融、宋の朱熹の説であるそうです。仁斎はこれを特定の人物としないで複数の友達たちととるそうですが、宮崎先生もそちらですね


 能を以て不能に問い、というのは孔子が太廟に入ったときの態度に表れています。自分の方が知識や教養がある、というのは己惚れなのかもしれないので慎重を期してまわりにたずねてまわる、とくに曾子が誓いをたてたのは若いころなのですから、こうした謙虚な態度が大切であるわけです。三人行うときも、自分とともに行動する人をしっかり観察しておけという事ですよね。


 「喧嘩を吹きかけられても」というのは吉川先生も同じ解釈ですが、金谷先生は「害されてもしかえしをしない」と、すでに暴力を振るわれちゃった状況を想定しているようです。「犯」ですからね。加地先生は「他者から不法・非礼な行為を受けることがあっても、報復したり」しない、ということで「犯」は礼をおかす、とするようです。宇野先生は少し堅苦しい。

他人から道に外れた事をされても、彼我の曲直を比べてこれを争うような事はない。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 なんだかインターネット上の不毛な罵りあいを想起しました。


六尺の孤を託すべく

 泰伯第八(185~205)

190 曾子曰。可以託六尺之孤。可以寄百里之命。臨大節。而不可奪也。君子人乎。君子人也。

(訓)曾子曰く、以て六尺の孤を託すべく、以て百里の命を寄すべし。大節に臨んで奪うべからざるなり。君子人か。君子人なり。

(新)曾子曰く、安心して未成年の孤児の君主を預けられ、一国の政治を委任して疑われない、重大な瀬戸際に立たされた時も日頃の信念を変えない。そういう人があったら、才徳を兼備した君子人と言えようか。確かに君子人だ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 諸葛孔明は、まさにこういう事をしたので、ゆえに嘘っぽい。清流派王道といった人物像ですね。宇野先生は淸正公を思い出すご様子。

 加藤淸正が嘗て人に向って「前田利家が晩年儒学に志して、わしや浮田秀家や淺野幸長(よしなが)を招いて、話のついでに論語の『六尺(りくせき)の孤を託し百里の命を寄す』の章を挙げたことがあったが、わしは当時学問しなかったから、何の意味だかわからなかったけれども、今になって考えて見るとほぼ暁(さと)る所がある。今日この語を念(おも)わない者は、おそらくは不忠不義に陥るだろう」と曰ったが、秀頼を奉じて家康と二条城に会見して無事に帰ったとき、泣いて「わしは今日いささか太閤の恩に報ゆることができた」と曰ったということである。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 関ヶ原前にきづけ! などといっても後の祭りではありますね。もちろん秀頼統治の世が素晴らしいなどと思っているわけではありません。


士は以て弘毅ならざるべからず

 泰伯第八(185~205)

191 曾子曰。士不可以不弘毅。任重而道遠。仁以為己仁。不亦重乎。不亦遠乎。

(訓)曾子曰く、士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す。亦た重からずや。死して後已む。亦た遠からずや。

(新)曾子曰く、学徒たる者は重みに耐える強さ、遠くまで続く粘りがなければ駄目だ。仁の追求を任務に背負っているのだから、こんな重荷はない。死ぬまで続く生涯教育だから、こんな遠道はない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 学に志す、ということは大変な覚悟であることよ。

*1:現スタロドゥプスコエ。この漢字の読み方さえ分かりません。