蜀犬 日に吠ゆ

2009-09-19

[][][][]泰伯第八を読む(その7) 21:29 はてなブックマーク - 泰伯第八を読む(その7) - 蜀犬 日に吠ゆ

如し周公の才の美あるも

 泰伯第八(185~205)

195 子曰。如有周公之才之美。使驕且吝。其余不足観也已。

(訓)子曰く、如(も)し周公の才の美あるも、驕り且つ吝(やぶさ)かならしめば、其の余は見るに足らざるなり。

(新)子曰く、如し才能の点では周公に比べられるような優秀な人でも、驕慢に加えて吝嗇であったなら、凡ては帳消しにされて見るにたえない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 この章句、一応自分用に補足。

 「驕」ならば才気は鈍ります。「吝」は能力の出しおしみをします。才の美は、人格的にすぐれているときにのみ発揮されるのであり、悪徳とともにあっては役に立たない、時にはわざわいさえ引きおこしかねないのです。


 これは、詩に興り礼を以て約す、その他でなんども繰り返される、孔子の教えの基本になる考え方ではあります。すなわち、その人が内面でどれほどよい徳性をはぐくんでいても、それを表現するのに「礼」にのっとっていなければならない、ということであります。ですから、君子はまず自己を高める努力をしなければいけませんが、そうしたら次にはその能力を世の中に発揮できるように錬磨しなければなりません。最後には、世の中を折り合いをつけて理想の社会を実現していくわけです。

 そうしたわけで、才能を阻害するような悪い習性をもっている人物は、才能のあるなしすら問題にならないのです。


 もう一つ、人の上に立つ者は周囲を感化する、という点から解釈することもできますね。驕慢で吝嗇であっては、いかに才能があっても尊敬されない。尊敬されなければ才能を発揮する所がない、というわけです。

 もしくは、才能があって 驕且つ吝の人が出世すると、才能がなくて驕且つ吝の人まで大きな顔をしだすようになり、社会が乱れてしまうということかもしれません。

 いずれにせよ、人格のいびつな人は話にならないということ。