蜀犬 日に吠ゆ

2009-09-20

なんでひとりに

[][][][]泰伯第八を読む(その8) 21:23 はてなブックマーク - 泰伯第八を読む(その8) - 蜀犬 日に吠ゆ

三年学んで

 泰伯第八(185~205)

196 子曰。三年学。不至於穀。不易得也。

(訓)子曰く、三年学んで、穀に至らざるは、得やすからざるなり。

(新)子曰く、三年学問を続けても、俸給にありつきたいと思わぬのは、奇特な人間というべきだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 普通は職を得るために学問するので、これはそういう実利を求める気持ちでは学問はつづかないことを諫めたのでしょう。

 あるいは、自分がなかなか就職できないことを揶揄されて切り返したのかもしれません。

 別な解釈としては、

 老先生の教え。三年間、(私のところで)学んで、仕官して俸禄を得ることができない者は、見当たらない。

加地伸行『論語』講談社学術文庫

 絶対就職! なんだか専門学校の宣伝のようでもあります。


 「穀」を「善」と読み、三年間学問しながら、善に到達しないものは、めったにない。それが古注に引く孔安国の説である。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

 三年勉強すればいっぱしの君子になれるなんて、それはちょっと甘いような記がしますね。日、暮れて道遠しってものですよ。

 「穀」をやはり「俸禄」の意味とするが、三年勉強した結果として、官吏として俸給を得べき資格に到達しないもの、それはめったにない。つまり、三年間の勉強は、社会人としての地位を、おのずから保証する。これは、皇侃の「義疏」に引いた東晋の孫綽の説である。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

 うう。何年も就職できない人は、学問を修めたに値しないのですね。それはその通りなんですけれども、ぼくはほんたうにつらいなあ。


 従来の解釈に、三年勉強しても俸給にありつけぬようなざまでは、一生かかってもむつかしかろう、とする説がある。しかし、不易得はやはり、貴重で得難いと解するのが自然であろう。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 その通りです、さすが宮崎先生、わかっていらっしゃる。


篤く信じて学を好み

 泰伯第八(185~205)

197 子曰。篤信好学。守死善道。危邦不入。乱邦不居。天下有道則見。無道則隠。邦有道。貧且賤焉。恥也。邦無道。富且貴焉。恥也。

(訓)子曰く、篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす。危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道あるときは見(あら)われ、道なきときは隠つ。邦に道ありて、貧にして且つ賤しきは恥なり。邦に道なくして、富み且つ貴きも恥なり。

(新)子曰く、一生をうちこんで学問を好み、命にかけても実践を大事にする。亡びかけた国には入らず、乱れた国には住まわぬ。天下がよく治まった時には出世し、乱れた世の中では無視される。正義の行われる国に住んでいて、貧乏で地位がないのは、恥ずかしいことだ。しかし不義の通る国にいて、金持ちだったり地位が高かったりするのはもっと恥さらしというべきだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 前半部分は、用いられれば働き、罷めさせられれば引込んで音もたてぬ、暴虎馮河の話の時と同じですね。危邦乱邦への注意深さは戦戦兢兢にもあるように、自分の命かわいさというのではなくて「孝」のためでしょう。


 後半は、清貧を貴びすぎる隠者の思想と一線を画す孔子ならではの思想でしょう。そもそも人間は、与えられた能力を十分に発揮して人生をおくることが望ましいのであって、学に志すのはその資質を高めてのちにそれを世のため人のために使うのが目的のはず。邦に道がないのは天の時や地の利もかかわることですから、それを人力でひっくり返すことはできるわけもなく、忍んで待つなりよそへ移るなりするべきですが、邦に道があるのに鳴かず飛ばずと云うのでは、日頃の研鑽と称する活動も怪しかったといわざるを得ないでしょうね。(という解釈では、三年学んでうだつが上がらなければもう駄目だ、につながってしまいましょうか。)


其の位にあらざれば

 泰伯第八(185~205)

198 子曰。不在其位。不謀其政。

(訓)子曰く、其の位にあらざれば、其の政を謀らず。

(新)子曰く、所管以外の政治には、傍から口出しをしない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 命令系統の混線は組織の意味を失わせますからね。しかし責任のないことについてとなると途端に饒舌になる人が多いことから、ほんとうに神さまは人間をつくるとき性能を悪く作りましたよ。


 ついでに、憲問第十四にもおなじ章句が。

 子曰、不在其位、不謀其政。

 子の曰わく、其の位に在らざれば、其の政を謀らず。

金谷治『論語』岩波文庫

師摯の始めは

 泰伯第八(185~205)

199 子曰。師摯之始。関雎之乱。洋洋乎。盈耳哉。

(訓)子曰く、師摯の始めは、関雎の乱(おわり)のころおい、洋洋として耳に盈(み)てるかな。

(新)子曰く、音楽師の摯が奏する第一楽章は、関雎の章の終りのあたりまでくると、なんともいえぬ妙なる調べが、洋洋として耳から去らぬ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 音楽は、空間を越えていく力に秀でていますが、時間を超えることは難しい。こうした章句は多くの解釈がありますが、そのもとの音楽に触れることが絶望的なのですから、解釈するだけ不毛なのかもしれません。

 詩経国風の關雎(みやこどり)に関しては、1句を以前に書きうつしましたが、今回は第5句、最終句を移しておきます。しかしこの詩は2・4・5句が同形式の疊詠なので、乱調子かどうかはわかりませんよね。

1 關雎(みやこどり)

5 參差荇菜

 左右芼之 mo

 窈窕淑女

 鍾鼓樂之 lok


 參差たる荇菜は

 左右にこれを芼(えら)ぶ

 窈窕たる淑女は

 鍾鼓これを樂しむ


 おひいづる じゆんさいを

 みぎひだり えらびとる

 たをやかの かのひとは

 かねうちて たのしまむ

白川静訳注『詩経国風』東洋文庫 平凡社