蜀犬 日に吠ゆ

2009-09-21

[][][][]泰伯第八を読む(その9) 19:23 はてなブックマーク - 泰伯第八を読む(その9) - 蜀犬 日に吠ゆ

狂にして直からず

 泰伯第八(185~205)

200 子曰。狂而不直。侗而不愿。悾悾而不信。吾不知之矣。

(訓)子曰く、狂にして直からず、侗(おろか)にして愿(つつしみ)あらず、悾悾(こうこう)として信ならずんば、吾れを知らざるなり。

(新)子曰く、自信過剰の上に正直さを欠き、田舎者でありながら素朴さがなく、真面目そうに見えてその場かぎりの人間は、私も言いようを知らない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 宇野先生は蘇東坡を引いて前半部分を付け加えます。

 蘇東坡が曰うには、「天は物を生じて、一様の気質を与えない。その材が中以下の者は、この徳があればこの病があるし、この病があれば必ずこの徳がある。故に蹴ったり噛んだりする馬は必ず善く走るし、善く走らない馬は必ず従順である。このやまいがあってこの徳のないのは天下の棄材である。」

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 普通の人は欠点のあることを免れないが、欠点があれば又これに伴う美点もあるものである。志が大きくて小事に拘わらない者は多くは正直(せいちょく)である。無知なる者は多くは謹厚である。無能な者は多くは信実である。今志が大きくて小事に拘わらない者でありながら正直でなく、無知でありながら謹厚でなく、無能でありながら信実でないならば、欠点ばかりで美点がないものであって、わしはこれらをどうして好いかわからない。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 孔子はときに「狂」をさえ賞めるときがあります。中庸の徳を完成することは難しくてだれにでもできることではない。その時は狂もまたやむなし、という段階を踏んでではありますが。

子路第十三

 先生がいわれた、「中庸の人をみつけて交われないとすれば、せめては狂者か狷者だね。狂の人は(大志を抱いて)進んで求めるし、狷の人は(節義を守って)しないことを残しているものだ。」

金谷治『論語』岩波文庫

 狂は中庸からはずれた極端ではありますが、美徳ではあるのです。ただそれが、正直さを欠くというのでは、狂の内実が怪しくなります。

 以下、侗にせよ悾悾にせよ同じ。世間で悪徳とされている振る舞いの、世間は外見を見て批判しますが、孔子は内面の良さを認めます。内面が駄目なら駄目。

 こうした「狂」「侗」「悾悾」は、「礼をもって之を約す」となれば一番いいこと、いうまでもありません。


学は及ばざるが如くするも

 泰伯第八(185~205)

201 子曰。学如不及。猶恐失之。

(訓)子曰く、学は及ばざるが如くするも、猶おこれを失わんことを恐る。

(新)子曰く、学問は追いかけるようにしてついて行っても、それでも姿を見失いそうになるものだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 「失」を、「学問の方向性を見失う」、とするか「学問で得たものを失ってしまう」とするかで解釈は異なりますが、どちらにしても成り立つとは思います。前者であればこれからすべき未来の学問を失い、後者と取ればこれまでにした過去の学問を失う、ということになります。

 ただわれわれは現在にしか生きるわけに行かないのですから、未来におびえ過去におののいている暇はありません。必死に追いかけることだけが、学問なのでしょう。

 現在の学問を失うことはないのでしょうか? つまり、今学問だと信じてやっていることが空虚であるということは。私の好きな金剛経の一節、

金剛般若経 18b

佛告須菩提。爾所國土中所有衆生若干種心。如來説諸心皆為非心是名為心。所心者何。須菩提。過去心不可得。現在心不可得。未來心不可得。


仏、須菩提に告げたもう、「そこばくの国土の中のあらゆる衆生の若干種の心を、如来は悉く知る。何を以ての故に。如来は、もろもろの心を説きて、皆非心となせばなり。これを名づけて心とす。ゆえはいかに。須菩提よ、過去心も不可得、現在心も不可得、未来心も不可得なればなり。


師は言われた――「スブーティよ、これらの世界にあるかぎりの生きものたちの、種々さまざまな心の流れをわたしは知っているのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、『〈心の流れ〉〈心の流れ〉というのは、流れではない』と、如来は説かれているからだ。それだからこそ、〈心の流れ〉と言われるのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、過去の心はとらえようがなく、未来の心はとらえようがなく、現在の心はとらえようがないからなのだ。

中村元・紀野一義訳註『般若心経・金剛般若経』岩波文庫

 絶えず変化をつづけるものを「こうである」と定義して、標本室にピンで留めておくことなどできないのはお釈迦様の言うとおりなのでしょうけれども、だからといってそれを明らかにすることをやめていいわけではありません。人は、仏となるために、すべての心が非心であると見極められるようになることが、仏教の目標であります。

 儒教でも、ゆえにこそ力のかぎり追いかけることが進められるわけです。