蜀犬 日に吠ゆ

2009-09-23

[][]かゆの木(『枕草子』) 16:55 はてなブックマーク - かゆの木(『枕草子』) - 蜀犬 日に吠ゆ

 十五夜のボウジボウウチ(ワラデッポ)が話題になったときの関連で。かゆの木。

(三)正月一日は

 十五日、節供まゐりすゑ、かゆの木ひきかくして、家の御達・女房などのうかがふを、うたれじと用意して、つねにうしろを心づかひしたるけしきも、いとをかしきに、いかにしたるにからん、うちあてたるは、いみじう興ありてうちわらひたるはいとばえばえし。ねたしとおもひたるもことわりなり。あたらしうかよふ婿の君などの内裏(うち)へまゐるほどをも心もとなう、所につけてわれはと思ひたる女房の、のぞきけしきばみ、おくのかたにたたずうまふを、まへにゐたる人は心得てわらふを、「あなかま」とまねき制すれども、女はたしらず顔(がほ)にて、おほどかにてゐ給へり。「ここなる物とり侍らん」などいひよりて、はしりうちてにぐれば、あるかぎりわらふ。をとこ君もにくからずうちゑみたるに、ことにおどろかず、顔すこしあかみてゐたるこそをかしけれ。また、かたみにうちて、をとこをさへぞうつめる。いかなる心にかあらん。なきはらだちつつ、人をのろひ、まがまがしくいふもあるこそをかしけれ。内裏わたりなどのやんごとなきも、けふはみなみだれてかしこまりなし。

池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫

 野蛮ですねえ。

枕草子 (岩波文庫)

枕草子 (岩波文庫)


 あと、桃尻誤訳。

 節句のお膳をお出しした後で、お粥炊いた薪をちょっと隠して、ご一家のお姫ィ様や女房(キャリア)なんかが狙ってるのをさ、「ぶたれるもんか!」って構えてて、いつも後ろを用心してる様子っていうのもすっごく素敵なんだけど、どうにかした拍子でなっちゃうのね――命中しちゃうのはメッチャクチャおもあしろいし、大笑いしてるのは、すっごく陽気ね。

橋本治『桃尻語訳 枕草子』上 河出文庫

 うんぬん。たしかにもうこの文体は古いですなあ。(このあとハートマークだの音符だのもでます。)まあ、どうでもいいか、そんなこと。

桃尻語訳 枕草子〈上〉 (河出文庫)

桃尻語訳 枕草子〈上〉 (河出文庫)



[][][][]泰伯第八を読む(その10) 21:21 はてなブックマーク - 泰伯第八を読む(その10) - 蜀犬 日に吠ゆ

舜禹の天下を有つや

 泰伯第八(185~205)

201 子曰。巍巍乎。舜禹之有天下也。而不与焉。

(訓)子曰く、巍巍たるかな、舜、禹の天下を有(たも)つや。而してこれに与からず。

(新)子曰く、崇高といえば、舜や禹の天下を治めるやり方だ。少しも天下を治めているように見えぬ所が偉いのだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 ここから205まで、古代の聖王を春秋の筆法で述べる!


 巍巍は「高大なさま」、高い山のことですから、見上げるばかりに素晴らしい、という事でしょう。


 舜と禹の徳の高さ、それは「而不与焉」である、ということですが、これは「ことに与(あづ)からず」ととれば、宮崎先生のように「天下を治めているように見えぬ」、金谷先生「自分では手を下されなかった」という解釈になりましょう。また、「心を与からず」とするなら宇野先生のように「名誉だとか楽しいだとかいうことがない」となります。


 一つには、もちろん教育感化の問題があります。君主の仕事はあれこれ命令を出すことにではなくてその美徳で周囲を感化していくことにあります。あくせくはたらくのは有司の仕事であって、衆星が共う中心にいるのが儒教におけるマネジメントとなるのでしょう。


 もう一つは、理想の帝王学といいますか、鼓腹撃壌は堯ですが、ああいう、人々にいちいち意識されないような君主が最高であるという考え方から、王であるからといって何らかわることなく平静に過ごすことができるというのは、実際の勤勉はともかくそれを民に知らさないのがたしなみというものですね。



 舜、禹というのは古代の架空の聖王ですからこうして美化してかまわないわけで、実際の政治はそんなわけにはいかないというのも、それはそれで一面の真実ではあるでしょう。しかし、孔子の教えはあくまで信而好古


 ↓他の人の意見

第十五章 人間、ことに世の君主の、毀誉褒貶はなにによるのか

 では、夢物語の君主に関する話はおいて、あれこれの実在の人物を論じよう。

マキアヴェリ 池田廉『君主論』中公バックス
第十七章 冷酷さと憐れみ深さ。恐れられるのと愛されるのと、さてどちらがよいか

愛されるより恐れられるほうが、はるかに安全である。というのは、一般に人間についてこういえるからである。そもそも人間は、恩知らずで、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険をふりはらおうとし、欲得には目がないものだと。

 そのため、あなたが恩恵をほどこしているうちは、みながあなたの意のままになり、血も家財も生命も、子供たちさえあなたに捧げてくれる。とはいえ、さきにも(第九章)述べたとおり、それほどの必要性がまだはるか先のときはである。そして、いざ本当にあなたに必要がさしせまってくると、きまって彼らは背をむける。そこで、彼らの口約束に全面的にのってしまった君主は、ほかの準備がまったく手つかずのため、滅んでいく。偉さや気高い心に惹きつけられてでなく、値段で買いとられた友情は、ただそれだけのもので、いつまでも友情があるわけではなく、すわというときの当てにはならない。

 たほう人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を容赦なく傷つけるものである。その理由は、人間はもともと邪なものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情などは、自分の利害のからむ機会がやってくれば、たちまち断ち切ってしまう。ところが、恐れている人については、処刑の恐怖がつきまとうから、あなたは見放されることがない。

 ともかく、君主は、たとえ愛されなくてもいいが、ひとから恨みを受けることがなく、しかも恐れられる存在でなければならない。なお恨みを買わないことと、、恐れられることとは、りっぱに両立しうる。

マキアヴェリ 池田廉『君主論』中公バックス

 舜と禹はここが『論語』初登場?でしょうか。舜は「雍也第六」に堯舜も其れ猶お悩む、として登場していましたね。吉川先生による解説を書き留めておきます。

舜とは、堯・舜の舜であって、おろかな、いやしい農民の子であったが、前任の皇帝である堯から、抜擢されて、その譲位をうけ、完全な道徳政治の時代を現出したと、伝えられる皇帝であり、その事跡は、いまの「尚書」、すなわち「書経」の、「舜典」篇(吉川「尚書正義」岩波版第一冊、全集八巻)に見える。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

また、禹とは、舜の時代の大問題であった洪水を治め、その功績により舜の譲位をうけて皇帝となり、夏王朝の開創者となったと、伝えられる英雄である。その事跡は、「尚書」の「禹貢」篇(吉川「尚書正義」岩波版第二冊、全集八巻)その他に見える。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書