蜀犬 日に吠ゆ

2009-09-25

[][][][]泰伯第八を読む(その12) 21:29 はてなブックマーク - 泰伯第八を読む(その12) - 蜀犬 日に吠ゆ

才難し

 泰伯第八(185~205)

204 舜有臣五人。而天下治。武王曰。予有乱臣十人。孔子曰。才難。不其然乎。唐虞之際。於斯為盛。有婦人焉。九人而已。三分天下有其二。以服事殷。周之徳。其可謂至徳也已矣。

(訓)舜に臣五人あり、而して天下治まる。武王曰く、予に乱臣十人あり、と。孔子曰く、才難しとは、其れ然らずや。唐虞の際、斯に於いて盛んとなす。婦人あり、九人のみ。天下を三分して其の二を有(たも)ち、以て殷に服事す。周の徳は、其れ至徳と謂うべきのみ。

(新)舜は五人の臣下を用いて天下を治めた。周の武王は、予(われ)に乱臣(よきけらい)、十人あり、と言った。孔子曰く、人材は得難い、といわれるが全くその通りだ。唐堯、虞舜の際から以後は、この時こそ全盛を極めた。十人のうち、一人は婦人の内助の功であるから、政治家は九人だけであった。天下の三分の二を保有しながら、なお殷の主権を認めて服従していた。だから周の徳義は最高であったと言ってよい。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 この章句では、「伝説的な堯舜の時代をのぞいては、周の時代こそ最高である」という孔子の主張が打ち出されています。

 天下を治めるのに必要なのは人材である、という話はその通りで、三国時代の劉備も(演義ではとくに)そういう話になっていますよね。西遊記でも、玄奘一行をつぎつぎ助ける神仙がいればこそ妖怪退治であるわけですからね。

 とくに、最初の十人は重要。


 舜の五人とは。

舜には、すぐれた臣下が五人あり、そのために、天下が太平であった。五人とは、禹と、稷と、契(せつ)と、皐陶(こうよう)と、伯益とである。うち禹が、洪水を治め、次の夏王朝を創めた偉人であること、稷が、農事の長官であり、のちの周王朝の遠祖となったこと、契が、民政の長官であり、のちの殷王朝の遠祖となったこと、皐陶は、司法長官として、伯益は、狩猟の長官として、それぞれ舜を補佐したことは、「尚書」のっはじめの方の篇に見える(吉川「尚書正義」岩波版第一冊参照、全集八巻)。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

 

 武王にも能臣がいた。わけですが、「乱臣=よきけらい」の解釈。宮崎先生はなんの説明もつけくれていませんが、一読しただけでは疑問ですよね。

周王朝の創始者である武王、すなわち姫発も、多くのよい補佐者をもった。そのことは武王自身の言葉にも見えるのであって、「予に乱臣十人有り」。ここの乱の字は、その字の普通の意味ではなく、あべこべに「治」の字の意味であって、すぐれた補佐者十人をもったことを意味する。かく言葉が普通の意味とは全く反対の意味をあらわすことは、いわゆる「反訓」である。「くるしい」を意味する「苦」の字がある場合には「快」を意味し、「ゆく」を意味する「徂」の字がある場合には「存」を意味するのと共に、よくその例として引用される。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

「乱」は、治。乱という状態は、一方から見ればいわゆる乱であるが、相手側から見れば治まっている。このように、「ミダル・オサマル」の相(あい)反した訓(解釈)を反訓という。

加地伸行『論語』講談社学術文庫

 主人公! 欺されまいぞ!

 「反訓」という苦しい(快い?)理窟を考え出したのは誰なのでしょう。「乱」が「治」であり、「苦」が「快」であり、「徂」が「存」である、というのは、なにを基準に「反訓」だと読み取れるのでしょう。「乱」の字があるときにはこういう意味で、あるときにはこういう意味であるというのであるなら、漢字の表意の機能は失われてしまうではありませんか。文脈なり、成語としては逆の意味になるというのであるならわかりますが、

 とくに厳しいのは加地先生。「乱という状態は、一方から見ればいわゆる乱であるが、相手側から見れば治まっている。」といいますが、「壬申の乱」は、天智側からも天武側からも「乱」でしょう。「陳勝・呉広の乱」は、どの側面からみて治まっていると言えますか。「攻めるの逆は守る」のような対応関係は期待できないと思います。

 というわけで、

乱臣は乱を治める臣。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 という宇野先生の解釈ですんなり納得。「國乱れて忠臣あらわる」といいますか、「知性の能臣、乱世の英雄」とでももうしましょうか、そういう人々が武王のそばにいたということなのでしょう。


さて、武王のもった乱臣、すなわち治臣十人とは、一、その弟である周公旦。二、同族である召(しょう)公奭(せき)。三、その軍師であった太公望。四、畢(ひつ)公。五、栄公。六、大顚(たいてん)。七、閎夭(こうよう)。八、散宜生(さんぎせい)。九、南宮适。そうして十は、武王の母であり父の文王の正妻であった太姒(たいじ)であるとされるのであるが、ここに一つの問題が発生する。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

 問題として、女をふくめて「臣」としてよいか、写本のなかにある臣の字の無いものこそ正しいのではないか、などという話題がありますが、どうでもいい、下らない。「乱臣」が「乱(オサムルモノ)」であっても同じです。十人いて、女性をのぞけば九人であるという意味は変わりません。

 孔子は「書経(尚書)」に類する、現在では失われてしまった資料を持っていて、こうした批評もそれに依拠してなされたのであろうとされていますが、もちろん私たちはそれがどんなものであったのか知るよしもないので、考える必要もないでしょう。また、現代に生きる私たちは孔子の知りえなかった資料『封神演義』などを知っているわけですが、それも除外して考えてよさそうです。


 十人の人材に恵まれ天下の三分の二を治めていながら宗主である殷に仕え、その殷の徳が失われてから放伐をおこなったところが、「至徳」とよばれる所以である、と。