蜀犬 日に吠ゆ

2009-09-28

リングの下

[][][][]子罕第九を読む(その2) 21:11 はてなブックマーク - 子罕第九を読む(その2) - 蜀犬 日に吠ゆ

吾は御を執るものなり。

 子罕第九(206~235)

207 達巷党人曰。大哉孔子。博学而無所成名。子聞之。謂門弟子曰。吾何執。執御乎。執射乎。吾執御矣。

(訓)達巷(たっこう)の党人曰く、大なるかな孔子。博学にして名を成すところなし、と。子これを聞き、門弟子に謂いて曰く、吾、何れを執らん。御を執らんか、射を執らんか。吾は御を執るものなり。

(新)同町内の達巷に住んでいる人が言った。孔先生は偉大だ。あれだけ博学で、しかも一向に有名にならぬ点が偉いのだ。孔子がそれを聞いて門人らに向って言った。戦車に乗って猟に出る時に、射手になるか、御者になるかと聞かれたら、私は縁の下の力持ちの御者の方になるたちなのだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 達巷の人たちが皮肉でいった可能性も考慮すべき。

 普通は、「博学で、何か一つの専門で有名にならない」ところが偉い、と褒めたところ、「一般には卑しまれている射手や御者だってやるよ、そのなかでもより低く見られる御者でも全然かまわないよ」と答えた、謙遜の話ということになっています。

 しかし、これは、宇野先生の注釈をみるにすこしおかしい。

射・御=礼楽射御書数を六藝(りくげい)という。射と御とはその中の卑しいもので、御はその中でも最も卑しいのである。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 といいますが、きちんと君子のたしなみとされていますし、「君子の競技は射」というくらい尊重されています。天子ならずとも狩猟が重要な行事であったればこそ、「舜有臣五人」に狩猟の長官である伯益が数えられるからです。単純に謙遜というのであればこの後に出てくる「鄙事に多能」というようないい方もありましたし、「俺の専門は穀物倉庫の会計だよ、文句あっか」ぐらいのことは孔子もいったでしょうから、宮崎先生のような解釈のほうがすっきりします。


 なお、達巷の党人は、姓は項、名は槖(たく)という説が、晋の皇甫謐(こうほひつ)の「高士伝」などに見える。項槖は項託とも書き、七歳にして孔子の師と為ったと、「淮南子(えなんじ)」の「修務訓」などに見える人物であるが、話柄としての価値しかもたぬであろう。またさらに別の説として徂徠は、達巷が姓、党人が名とするが、やはり通説とは成りにくい。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫