蜀犬 日に吠ゆ

2009-10-04

[][]中川一郎の後継者~~魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』講談社文庫 20:04 はてなブックマーク - 中川一郎の後継者~~魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』講談社文庫 - 蜀犬 日に吠ゆ

 昭和五十七年の十一月二十四日。総裁予備選で中曽根は河本敏夫、中川一郎、安倍晋太郎の三候補に圧勝。すぐに組閣名簿発表。予備選というのがどういうことかちょっとわかりません。

 中曽根政権誕生、しかしそれは新しい時代への生みの苦しみをともなうものであった……

第十一章 異端排除


「お前なんかの出る幕じゃない!」

 翌五八年二月、赤坂の料亭「金龍」の一室。渡邉と元科学技術庁長官・中川一郎の秘書だった鈴木宗男(のちに官房副長官)が険しい表情で睨み合っていた。

「お前なんかの出る幕じゃない!」

 渡邉が吐き捨てるように言うと、鈴木が言い返した。

「それは、あなたが決める問題じゃない。選挙民が決めることだ」

「北海のヒグマ」と言われた中川は総裁戦惨敗から一ヵ月半後の一月九日、札幌のホテルで首吊り自殺し、その後継者をめぐって中川後援会の話し合いが紛糾していた。夫人の貞子が押し立てた銀行員の長男。昭一(後に農相)支持派と、中川の「分身」と言われた鈴木の擁立に分かれたのである。

 貞子は、かつて中川と「兄弟以上の付き合い」(渡邉の証言)だった渡邉を通じて中曽根に働きかけた。中曽根は二月六日、後援会長に電話をかけ、

「跡目は長男にするのが人の道というもの。党としては鈴木君を公認できない。昭一君でぜひまとめてほしい」

 と要請した。二月九日、中川後援会は幹部十四人の採決の結果、八対六で昭一を後継候補に決めた。だが、鈴木は鈴木派幹部六人の要請を受ける形で出馬を宣言。後援会は真っ二つに分裂し、骨肉の争いが始まった。

 金龍で渡邉と鈴木が会ったのは、それからまもなくのことである。鈴木が首相官邸の副長官室で回想する。

「東日貿易の久保正夫さんから『会うだけでも会ってやれ』と言われて金龍に言ったんです。渡邉さんが何を言うかわかってたから、会いたくなかったんですが……でも行司役として同席した久保さんが公平だったから助かった。今もそれは感謝してます」

 久保はすでに述べたように昭和三十年代、児玉誉士夫や大野伴睦、河野一郎らをバックにしてインドネシアの戦後賠償貿易で大儲けした男である。巨人の長嶋茂雄や俳優の高倉健の後援者として知られ、伊藤忠商事の瀬島龍三とともに中曽根・中川を囲む「中中会」もつくっていた。

 衆院選への出馬断念を執拗に迫る渡邉に鈴木はこう言って反論した。

「もし中川先生が生前、後継者は息子さんだと言っておられたのなら、あなたのおっしゃることは当然だから、私も喜んで応援します。でも先生は世襲反対論者で息子さんを後継者にしようとはしておられなかった」

 久保も鈴木に同調した。

「確かに一ちゃん(中川)はそうだったな。俺の知ってる範囲では一ちゃんは『後継者は鈴木だ』と言っていた。な、ツネさん、あんただってそれは聞いただろう?」

 だが、渡邉は納得しなかった。激しい口調で鈴木に迫った。

「もし、お前があくまでも選挙に出るというのなら、俺は俺の人脈をつかってお前をたたくぞ」

 懇意な月刊誌編集長や出版社社長に働きかけて、鈴木批判の記事を書かせるという脅しだった。

 当時、中川の自殺の原因をめぐってさまざまな憶測が飛び交っていた。「KGB(ソ連国家保安委員会)に謀殺された?」「総裁戦で同志の手ひどい裏切りにあったのが原因だ」「中川は妻との不和に悩んでいた」……

 中でも根強くささやかれたのは鈴木の「参院選出馬」原因説だ。前年末、鈴木が参院地方区への立候補を言いだしたことが、「鈴木なしでは何もできない」と言われた中川を悩ませ、自殺に追い込んだというのである。中川と鈴木の「強すぎる絆」は貞子の反発を買い、それが後継者問題がこじれる原因にもなっていた。鈴木が言う。

「奥さんから『自殺の原因はすべて鈴木だ』と一方的に間違った話を聞いていたから渡邉さんはあんなことをしたんでしょう。『出るな』というときの迫力はすごかったですよ。渡邉さんは中曽根総理と親しいだけでなく政界の実力者をみんな知っている人だから、僕は日本中を敵に回したようなもんです。だけどまだ若かったから『なに言うか!』という感じで反発したんです」

 会談は物別れに終わった。約三ヵ月後、やはり久保同席で二人は話し合ったが、決着はつかなかった。

 その年十二月の総選挙で昭一は父を上回る十六万三千七百票余を集めてトップ当選。鈴木も六万七千四百票余で四位(定数五)で初当選を果たした。

「渡邉さんからは陰に陽に批判されましたよ。奥さんの(鈴木批判の)手記が月刊誌に載ったり、某社の週刊誌にひどいことを書かれたり。でも、当選することに意味があるわけですから。その意味では神も仏もいるもんだと思いました。もし僕が世間知らずでなかったら、渡邉さんに屈服していたかもしれない。いま考えてみれば、とんでもない力を持った人に刃向かったもんだと思いますよ」

魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』講談社文庫 p363-
渡邉恒雄 メディアと権力 (講談社文庫)

渡邉恒雄 メディアと権力 (講談社文庫)


[][][][]子罕第九を読む(その7) 19:19 はてなブックマーク - 子罕第九を読む(その7) - 蜀犬 日に吠ゆ

吾に知あらんや

 子罕第九(206~235)

212 子曰。吾有知乎哉。無知也。有鄙夫問於我。空空如也。我叩其両端。而竭焉。

(訓)子曰く、吾に知あらんや。知なきなり。鄙夫(ひふ)ありて我に問うに、空空如(こうこうじょ)たり。我はその両端を叩いてこれを竭(つく)すのみ。

(新)子曰く、私が知恵者だなどとは見当外れでしょう。私の知恵袋はいつもからっぽです。それに聞き方の下手な者がやってこられるのは一層こまる。私の袋からは何も出てくるものがないのだ。これこの通りと、二つの隅を叩いて振って見せるばかりだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 この章は恐らく孔子が、単なる物知りとされ、知恵を借りに来られるのに反撥して、それはお門違いだと言いたかったのであろう。学問とはそんなものではないのだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 そういう生活の知恵的な話ももちろんできる(多能ですから)のですが、そんなことにかかずらっている暇はないよ、という話。ただ、後半、知恵袋は空っぽだ、というのは宮崎先生流。

 鄙夫(無教養な男)が無教養な質問をしても、私はその隅々まで意味を忖度し、問題点を叩きだしてあげる(ので知恵があると思われているが、そんなでもない(誠実なだけだ)よ)。という、解釈が多いようです。