蜀犬 日に吠ゆ

2009-10-07

[][]五味太郎『大人問題』講談社文庫 23:47 はてなブックマーク - 五味太郎『大人問題』講談社文庫 - 蜀犬 日に吠ゆ

 「子供にとって大人は有害」でおなじみのアナーキスト、五味先生がとばします。

大人問題 (講談社文庫)

大人問題 (講談社文庫)

 わたしは五味先生とは真っ向から意見が違うというか、むしろ五味先生が糾弾する有害な大人であります。ではありますが、私自身矛盾をかかえているというか、自分の考えていることが間違っていることを常々考えているので、こういう本には非常に啓発されます。

なんだかんだと 子どもを試したがる 大人たち

■大人は子供に対して、すぐ試験をします。まさに試すのです。実力をつける、客観的評価をするなどという理由のもとに子供をいたぶってるとしか、僕には思えません。なぜ、そんな形でしか実力つけられないんでしょうか。最後はテストなんだろうか、点数なんだろうかと思います。それが大学入試まで続いて、社会に入っても営業成績という点数化によって評価されていく、この社会の雑さ、未成熟さ。救いがないなあという感じがします。


■女神様が、わざわざ金の斧と銀の斧を持って出てきて「これがあなたの斧ですか」と、木こりを試す話があります。これ、本当に意地が悪い。最初から木こりが落としたのは鉄の斧だってわかっているくせに、あえて試します。警察はわからなくても、女神様ならわかっているはずです。なにしろ女神様なんですから。

 『蜘蛛の糸』もいやな話です。あんな細い糸に、あとからあとから大勢のやつが昇ってきたら、「おれが終わってからにしろ」って怒るのが当然です。仏様も、うす汚い手で人を試します。この関係、神も仏もないという感じ。

五味太郎『大人問題』講談社文庫

 もちろんこうしたお話しは「空気読め」とか「偉い人の気持ちを察して行動しろ」という通俗道徳を教え込むためのものであることまちがいありません。芥川の場合はそれを揶揄する気持ちもあるでしょうけれども。そういう常識というのは、日本に限らず押しつけられるものですよね。それにたいして「何か変だな」と思う気持ちというのは大切なのかもしれません。「そんなのイヤだ!」などといちいち反発すると、くたびれてしまうから、まあまあうまいこと擦り合わせしましょうよ、というわたしのぬるい立場は、結局なんの解決にもならんと分かってはいるのですがね。


どうしても 義務と服従が好きな 大人たち

■この世からもし「いじめ」というものをなくしたいと思うなら、まず今の学校システムをなくせばいいと思っています。つまり、学校にいじめがあるのではなくて、学校という構造がそもそもいじめなのだと思います。

五味太郎『大人問題』講談社文庫

 これは賛同できません。「いじめ」とは何かという問題もありますが、子供同士の暴力や嫌がらせをいじめととらえるなら、学校があってもなくてもかわらずに存在すると思います。ただ、「いじめが問題だ、学校がなんとかしろ」という意見はなくなるでしょうね。学校がなければ。

 もちろん、学校があることによって発生するいじめもたくさんあります。近代国家を成り立たせる上で学校はメリットが大きいものであるとされています(子どもにとっていいか悪いかは別)からその損得のバランスの問題だと思うのですがね。


どうしても 義務と服従が好きな 大人たち

■学校に行きたい子って、ほとんどいないという事実があります。お休みと聞けばバンザーイというところです。友達に会いたいから、プールで泳ぎたいから、図書館へ行きたいから行く、という子はたくさんいるけど、学校そのものに行きたいという子はまずいないのです。

五味太郎『大人問題』講談社文庫

 この話は先進国の裕福な家庭ではその通りですね。ただ、

どうしても 義務と服従が好きな 大人たち

■義務教育について触れた憲法二六条ができたころは、まだ親の都合で売られたり、丁稚に行かされたりする子どもがいっぱいいた、子どもにとってはかなりハードな時代で、あれはその防止のための措置法としての性格があったような気がします。同様に、親の勝手で婚姻させられてしまう子どもを守るために、結婚の自由についても盛り込まれたわけです。

五味太郎『大人問題』講談社文庫

 憲法の理念は当時の状況を反映したものだという意見には、反対です。それは、現代の子供たちだって見え方は違いますがハードな人生を強いられている場合が多々あるからです。前段に引用した「学校がなくてバンザーイ」というのは、家に帰ればテレビがありゲームがありマンガがあって、友達がいて、という子どもでしょう。

 家族に暴力を振るわれたり、学校行く暇があったらアルバイトをしろと吹きこまれているような子どもを守る場所は、どこにあるのでしょう。アメリカなどは学校にカウンセラーや児童福祉士が常駐して家庭の問題や就業している子どもへの支援を行えるようになっていますが、本朝はそうなっていません。それは、憲法の不備のせいなのでしょうか。それとも、憲法の理念を実現するだけの行政側の制度が整っていないせいなのでしょうか。


どんなときでも わかったような顔をしたい 大人たち

■アートの楽しみが心と体にちっとも根づいていない人々が、なんでもかんでも審査する――一応スキーやスケートは大人の仲間うちでやってることだから、しょうがねえなあということでほっておくとして、こういう大人たちが子どもの世界で芸術教育を、などとなると、もう話がめちゃくちゃになってしまってちょっとほっておくわけにはゆきません。

 たとえば、子どもが描く絵を使って、子どもの心を判断しようなどという「絵画児童心理学」。これはほんとうに悪い趣味です。大人がもし物事すべてを血液型と星占いで判断してたら、「おまえ、馬鹿か」って端的に言われるだろうに、それより程度の低いことを子どもに向かって平気でしているわけです。

 たとえば、黒っぽい色、ダークな色で絵を描いているこどもは「性格が暗い」なんて言われたりします。言ってるおまえのほうがよっぽどクラいよという感じです。

 それから、小さい絵ばかり描く子は「神経質だ」、紙がこんなに大きいんだから、全体に行き渡るように欠くのが望ましいなんて言います。

 かと思えば、紙からはみ出すように描いていると、「元気があっていい」。激しく描きすぎて紙を破いたり、紙にブツブツ穴をあけたりすると、「この子は少し乱暴です」。いい加減にしなさいと言わざるを得ません。馬鹿だけならいいのですが、狡猾です。

 なぜなら、性格が暗いとか、神経質だとか、乱暴者だとか、いろいろと烙印を押し、問題視しておいて、今度はそれを「治しましょう」という商売につなげるからです。

五味太郎『大人問題』講談社文庫

 そこまで御存知なら、他人の商売を邪魔しなくてもいいのでは?


 引き写しているときりがないのでこの辺でやめておきます。