蜀犬 日に吠ゆ

2009-10-13

[][][][]子罕第九を読む(その12) 21:59 はてなブックマーク - 子罕第九を読む(その12) - 蜀犬 日に吠ゆ

九夷に居らん

 子罕第九(206~235)

218 子欲居九夷。或曰陋如之何。子曰。君子居之。何陋之有。

(訓)子、九夷に居らんと欲す。或るひと曰く、陋なる、これを如何せん。子曰く、君子これに居らば、何の陋なることかこれあらん。

(新)孔子があるとき、東方の夷狄の国へ移って住みたいと言いだした。或るひと曰く、むさくるしいのをどうしますか。子曰く、諸君がいっしょに居てくれたら、何のむさくるしいことがあろうか。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 でた! 宮崎先生の「君子」は解釈が独特なのですが、ここでは上手に効いていますね。当然「或るひと」というのは弟子たちのひとりなのでしょう。

 前の句「美玉を売りますか」といい、孔子は長い不遇な時代を毅然として貫いたわけでもなくてこうした気弱発言もたびたび行っているわけです。「桴に乗ってどこまでも」などと、合唱曲のような発言もありました。上論もそろそろ終盤にさしかかってきたと言うことでしょうね。

 九夷とはどこか、なぜそんなむさくるしいところに孔子が行こうとしたのか、多くの人が興味を持ちました。

 むさくるしい、泥くさいと言えば、おなじみのこの国。

 この条は、むろん日本の儒者たちの注意をかきたてた。仁斎の「古義」は、孔子はほかならぬ日本に来たがったのであるとし、吾が太祖すなわち神武天皇の開国元年は、実に周の恵王の十七年に丁(あた)る、「今に至るまで君臣相い伝えて、綿綿として絶えず、之れを尊ぶこと天の如く、之れを敬うこと神の如し。実に中国の及ばざるところ、夫子の華を去りて夷に居らんと欲するは、亦由有る也」云云というが、徂徠はそれに反撥して、「若し夫(か)の吾が邦の美は、此れを外(ほか)にして自(お)のずから在る有り。何んぞ必ずしも論語に傅会して、妄(みだ)りに稽(よ)りどころ無き言(ことば)を作(な)さんや」。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

 漢学と国学は、それは喧嘩しますよね。「日本の太祖」って、これ確定なのでしょうか。日本書紀を確認しないといけませんかね。ただ、孔子がこんな「絶域」の情報を得て、きちんとしたイメージを持って九夷といったのかは疑わしいでしょう。

 もちろんおとなりもむさくるしい。

「用夏(華)変夷」

 朝鮮は中国からみれば本来夷狄の一つである東夷である。その東夷が、先述の『孟子』のいわゆる「用夏(華)変夷」、つまり中華の教えをもって夷狄の風俗を変えさせた契機は、いったいなんであったのか。ここでは宋時烈の発言にそくしてみてみよう。「わが国は箕子の国である。箕子がおこなった「八条之教」は皆洪範にもとづいているのだから、箕子が周の武王に授けた洪範という天地の大法が、わが国でも周と同時におこなわれていたことになる。『論語』のなかで、孔子が中国で道がおこなわれないことを慨嘆し、九夷(九夷は東夷、つまり朝鮮のことと解釈されている)にでも居ろうかといったのも、このために違いない」(『宋子大全』)という発言は、孔子が生まれる以前に、すでに儒教の根本の教えが朝鮮に伝わっていたことを確信するものである。このように、朝鮮に中華の文明が根づくようになった重要な契機として、箕子朝鮮の存在がまずあげられるのである。

山内弘一『朝鮮から見た華夷思想』世界史リブレット 山川出版社

 宋時烈は尊明派と呼ばれる、清(後金)王朝との徹底抗戦を説いた武官で、丙子胡乱の講和後官を辞していました。いよいよ明が亡びるなかで朝鮮を「小中華」とすることを主張しました。この「東夷ってステキよね」という夫子の言葉は、実に都合がよかったに違いありません。


 中国がとりわけスマートであるという事でもありません。


 なにしろ孔子という人は、絶賛クーデタ中の公山不擾のところにさえ「If you wanna have a good time, Just give me a call」という性格ですから、九夷というのも「人間の住む最低最悪の場所」くらいのもののたとえで言った可能性が高そうです。

陽貨第十七

公山不擾、費を以て畔(そむ)く。子往かんと欲す。子路説ばずして曰わく、之(ゆ)くこと末(な)きのみ。何ぞ必ずしも公山氏にこれ之かん。子の曰(のたま)わく、夫れ我れを召く者にして、豈に徒(ただ)ならんや。如し我れを用うる者あらば、吾れは其れ東周を為さんか。

金谷治『論語』岩波文庫

 絶好調! 誰も僕を止められない! しかし結局クーデタは失敗に終わり、孔子の夢はまたしても敗れ去るのでした。ジャンジャン。


 また、こういう疑問と回答もあります。

 九夷でも化することができるのに、中国を化することができないのはなぜかという問いに対して、朱子は「当時中国は聖人の教化を蒙らないことはないけれども、ただ時の人君が用いないから、その道を行うことができないのだ」と曰ってる。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫