蜀犬 日に吠ゆ

2009-10-14

[][][][]子罕第九を読む(その13) 19:48 はてなブックマーク - 子罕第九を読む(その13) - 蜀犬 日に吠ゆ

然る後楽正しく

 子罕第九(206~235)

219 子曰。吾自衛反魯。然後楽正。雅頌各得其所。

(訓)子曰く、吾れ衛より魯に反る。然る後、楽正しく、雅頌、各々其の所を得たり。

(新)子曰く、自分が衛の旅先から本国の魯に引上げてきた後、音階が規則通りになり、雅頌の歌詞の部分もそれぞれ正しい場所に納まった。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 「孔子略年表」によれば、衛から魯に帰還したのは孔子69歳。それよりも前に陳で「ぼちぼち帰るか」といっていたわりに、まっすぐ帰るわけにはいかなかったようです。

 魯に帰ってからの孔子は、弟子の教化はもちろん、「春秋」の編纂を始めとして古典整理を行ったとされていますが、そうした活動への自負の言葉とみてよいのでしょう。


この時、周の礼が魯に在ったけれども、詩も楽もみな残欠して次第を失っていた。孔子は四方を周游して、諸国で聞いた所と、周の礼に規定された所とを参照考訂して詩と楽の説を知っていたから、晩年その道の行われないことを知って、魯に反って楽を正したのである。(朱子による)

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 若かりしころの孔子は、もちろん博く文を学んではいたのでしょうけれども、魯における祭礼の儀式自体が間違っているなどということは、知るよしもなかったことでしょう。諸国を巡ったのは、もちろん仕官を求めてという目標もあったことでしょうが、各地の礼を学んで、失われてしまった周礼の形を取り戻そうとする意図も加わっていたでしょう。仕官の見込みもなく、また礼の再現に目鼻が付いたタイミングが、「ぼちぼち帰るか」だったのかもしれません。

 周知のように、いまの「詩経」は、三つの部分に分れる。すなわち諸国の民謡である「風」百六十篇が、第一の部分、西周の王室のうたである「雅」百五篇が、第二の部分、周の王室その他の神楽うたである「頌」四十篇が、第三の部分であるが、ここには「風」はあらわれず、「雅」と「頌」のみがあらわれる。「各おの其の所を得たり」の「所」とは、しかるべき所、しかるべき位置、という意味であって、それまでは、分類に多少の混乱があったのを、整理して、妥当な分類におちつけた、というのが普通の説である。

 「史記」の「孔子世家」は、この条を、そのまま引いたあとに、孔子以前には、三千余篇の詩があったが、孔子はそれを選択して、現在われわれの見るのと同じく、三百五篇の形にしたという。「史記」のこの説によれば、孔子は選択と整理を同時に行ったことになるが、「史記」の説には、反対説もある。すなわち孔子以前から、詩はすでに大体三百篇であったとするのであって、その派の説によれば、「雅頌各おの其の所を得たり」とは、純粋に分類のみだれを正したことになる。また新出の鄭玄の注が、「雅と頌の声、各おの其の節に応じ、相(たが)いに倫を奪わず」というのは、詩篇の分類よりも、その音楽としての秩序のみだれを正したというのであって、そうした説は、鄭玄以外にもある。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

 いまいちど、詩経をせんたくいたしそうろう。


出でては公卿に事え

 子罕第九(206~235)

220 子曰。出則事公卿。入則事父兄。喪事不敢不勉。不為酒困。何有於我哉。

(訓)子曰く、出でては公卿(こうけい)に事(つか)え、入りては父兄に事う。喪事は敢て勉めずんばあらず。酒の為に困められず。我に於いて何かあらんや。

(新)子曰く、公生活では政府の大官の下で働き、私生活では父兄に奉仕する。葬式があれば手伝いに行って、できるだけの骨折りをする。酒を飲みすぎて不始末をしでかすようなことをしない。そんなことは私にもわけなく出来たことだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 恐らくこの章は孔子が弟子に教えた言葉であろう。儒教は礼の教えから出たが、その礼の中には民間の儀式も含まれ、殊に葬式には儒家の弟子が手伝いに行き、その謝儀が彼らの大きな収入源になっていた。この章はそのような儒家生活の内幕を伝えたものとして興味深い。特に葬式の際の振舞い酒のためにしくじるな、と戒めたのは最も適切な教訓だったのであろう。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 これを仰げば弥いよ高い、とはこのことです。儒者であるということは、遠い道のりをひとりゆくことなのでしょう。酒飲んで羽目外すくらい……というのが許されないのですから。


 それはさておき、これが弟子への教訓であるというのはその通りでしょうね。夫子ご自身の、過去をふりかえって述懐したようなものではないでしょう。あの人父兄いないし(父とは早くに死に別れ、側室で家を出た母と暮らした)。