蜀犬 日に吠ゆ

2009-10-16

[][][][]子罕第九を読む(その15) 20:38 はてなブックマーク - 子罕第九を読む(その15) - 蜀犬 日に吠ゆ

未だ徳を好むこと

 子罕第九(206~235)

222 子曰。吾未見好徳如好色者也。

(訓)子曰く、吾は未だ徳を好むこと、色を好むが如きものを見ず。

(新)子曰く、異性に関心の深い人間ばかり多くて、修養に心がける人間はさっぱりいないものだな。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 衛霊公第十五にも同様の章句があります。

子曰、已矣乎。吾未見好徳如好色者也、

子の曰わく、已んぬるかな。吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり。

金谷治『論語』岩波文庫

 「徳」と「色」とがきちんと対応するのであれば、両者を抽象概念なのか具象物なのかいずれにとるとしても、そろえる必要があるのでしょうけれど、宮崎先生のようにそろえない解釈が一般のようです。

 抽象概念でそろえるのは宇野先生。

[通釈]わしはまだ徳を好む心が美色を好むように誠実な人を見たことがない。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 いずれも具体的なもの(ここでは人)を指すと解釈するのは加地先生。

老先生の教え。美人よりも、教養人に近づこうという気持ちが強い人物に、私は出会ったことがない。

加地伸行『論語』講談社学術文庫

 その場合は「色」は美人君子は男ですから、相手は女)、「徳」は有徳者ということになるわけです。


 どちらかにそろえた方がいいのか、そろえないでいいのかといえば、そろえない方の解釈に私は賛成です。「色」を、すこし仏教風味ですが具体的・即物的な存在すべてととらえ、「徳」を形而上の理想ととらえるならば、目に見えぬ理想を大切にするのが君子であろうに、という孔子の思いがよくあらわれると思います。もちろん、理想を「礼」の形で具現化するところが儒教の大きな特徴ではありますが、あくまでも行為の根本は「徳」から出発しなければならないのであって、それを惑わせて人を駄目にする「色」は、豈に女色に留まろうや。


「史記」の「孔子世家」では、さきの雍也篇の、「子、南子に見(まみ)ゆ」の条と同じく、孔子五十七歳、衛の霊公の淫蕩な美しい夫人、南子に謁見した際のものとして、この言葉をのせる。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

 思えば孔子はたびたび女性にはひどい目に合わされてきた、というか女性ではなくて女色に惑う君主たちによって周礼復活の理想をほったらかしにされてしまったのです。魯に仕えていたときは斉からきた美女軍団によって定公が政務をほっぽり出し、また衛では南子が国を乱すさまを目の当たりにしました。おそらくこうした言葉が呟かれたのは、論語に登場する二回だけでは済まなかったことでしょう。