蜀犬 日に吠ゆ

2009-10-19

[][][][]子罕第九を読む(その18) 20:06 はてなブックマーク - 子罕第九を読む(その18) - 蜀犬 日に吠ゆ

其の進むを見たり

 子罕第九(206~235)

224 子謂顔淵曰。惜乎。吾見其進也。未見其止也。

(訓)子、顔淵を謂いて曰く、惜しいかな。吾は其の進むを見たり。未だ其の止まるを見ざりき。

(新)孔子が顔淵のことを憶い出して言った。全く惜しいことをした。たえず進歩をし続けた男だった。行きづまったらしい風を見せたことがなかったのだが。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 顔回を褒めれば褒めるほど、他の弟子は僻むのではないでしょうか。しかし孔子のこうした言葉が残されていたということは「兄弟子顔子淵をみならってがんばろう」と弟子たちも思っていたわけで、顔回の徳の高さがますます忍ばれるというスンポーですね。


苗にして秀いでざるものあるかな

 子罕第九(206~235)

225 子曰。苗而不秀者有矣夫。秀而不実者有矣夫。

(訓)子曰く、苗にして秀いでざるものあるかな。秀いでて実らざるものあるかな。

(新)子曰く、芽を出して成長しても、穂を出さぬことがある。穂を出したと思っても、実の熟さぬことがある。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 この流れからすれば、人格が完成する前に夭折した顔回のことであろうと推察するに吝かではありませんよね。

新注その他のおおむねの注釈は、やはり顔淵の夭折をいたんでの言葉とする。ただし、新出の鄭注は、「苗にして秀でざる」方は、七歳で孔子の師になったと、二八四頁で言及した項託、「秀でて実らざる」方が、顔回だという。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

 項託は、達巷党人とされる人ですね。吉川先生に、その時は無駄話のように書かれておきながらこうやって蒸し返される、結構有名人なのでしょうか。


 そうした前提なしに見るなら、

 この章は人を励まして学に進み必ず成るを期せしめるために発せられたのである。「苗(なへ)にして秀でざる者」は美しい天分がありながら学ぶことのできない者に喩え、「秀でて実らざる者」は学んでも人格を完成することのできない者に喩えたのである。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 という、努力はしてるんだろうけど全然ダメだなあ、こういう要領悪いのも世の中にはいるんだなあ、という、遅々として進まない弟子への嘆きに解釈することもできましょう。


後生畏るべし

 子罕第九(206~235)

227 子曰。後生可畏。焉知來者之不如今也。四十五十而無聞焉。斯亦不足畏也已。

(訓)子曰く、後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆるなきは、斯れ亦た畏るるに足らざるなり。

(新)子曰く、若い学徒に大きな期待をもつべきだ。どうして後輩がいつまでも先輩に及ばないでいるものか。しかし四十歳、五十歳になって芽のふかぬ者には、もう期待するのは無理だろう。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 後生は単なる若者ではない。先生に対する後生であって、学問に従事する後輩であろう。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 とはいいますが、『論語』中に「先生」なんてあまり出て来た記憶がありません。もちろん後生だってこの箇所に出て来るばかりなので宮崎先生の解釈がいいともわるいとも分からないのですけれども。よく考えるとわたしは「先生」をすこし揶揄の文脈で使いがちなので、こういうのは改めた方がいいのでしょうか。夫子もそうですね。


 四十五十で梲が上がらないと駄目、というのは、平均寿命の延びた現代ですからなんとかまけてもらいたいものです。

子の曰わく、年四十にして悪(にく)まるるは、其れ終わらんのみ。

金谷治『論語』岩波文庫

 こっちも。希望が欲しい。