2009-10-21
■ [書留][儒教][子罕第九][宮崎市定]子罕第九を読む(その19) 
法語の言は
子罕第九(206~235)
228 子曰。法語之言。能無従乎。改之為貴。巽与之言。能無説乎。繹之為貴。説而不繹。従而不改。吾末如之何也已矣。
(訓)子曰く、法語の言は、能く従うなからんや。これを改むるを貴しと為す。巽与の言は、能く説ぶなからんや。これを繹(たず)ぬるを貴しと為す。説んで繹ねず、従って改めざるは、吾れこれを如何ともする末(な)きのみ。
(新)子曰く、十分な理由のある忠告には、誰しもあやまる外ない。あやまった以上は改めることが大切だ。耳に聞きよい賞め言葉を聞くと誰しも嬉しくなる。しかし本当にそれに該当するかどうかを再検討することが必要だ。嬉しがっただけで検討せず、口先だけであやまっただけで行いの方を改めようとしない者には、私としてそれを直してやりようがない。
宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫
理路整然とした忠告はきちんと聞きいれろ、というはなし。
巽与之言は、賞め言葉とも言えないようです。
「巽与の言」というのも、いま一つ明らかでなく、徂徠などは、「未詳」とつっぱなしているが、古注の馬融の説によれば、「恭遜謹敬の言」であり、おだやかな、きびしくない言葉である。
吉川幸次郎『論語』上 朝日選書
とするならば、「それとない忠告」というふうにも解釈できます。もってまわった言葉は、「繹ぬるを貴し」、すなわちきちんとその底意を探らなければならないということでしょう。
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