蜀犬 日に吠ゆ

2009-10-27

[][][][]子罕第九を読む(その23) 20:10 はてなブックマーク - 子罕第九を読む(その23) - 蜀犬 日に吠ゆ

与に共に学ぶべきも

 子罕第九(206~235)

234 子曰。可与共学。未可与適道。可与適道。未可与立。可与立。未可与権。

(訓)子曰く、与(とも)に共に学ぶべきも、未だ与に道を適(ゆ)くべからず。与に道を適くべきも、未だ与に立つべからず。与に立つべきも、未だ与に権(はか)るべからず。

(新)子曰く、同じ場所で勉強しても、同じ道へ一しょに進めるとは限らぬ。同じ道を一しょに進んでも、一しょに仕事ができるとは限らぬ。一しょに仕事ができても、いざというとき運命を共にすることができるとは限らぬ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 クラスメート、趣味の合う仲間、仕事のチーム、運命を共にする友、それぞれの段階に応じて人間関係を使い分けよ、ということでしょうか。たまたま机を並べたくらいで「同窓のよしみだから」などと利益供与に荷担したりしてはいけない、のは当然でしょうね。


重点は、最後の「未まだ与に権るべからず」にあるらしい。「権」とは、儒家の哲学における相当重要な概念であって、「経(けい)」すなわち常道、それには反するが、常道に反すればこそ、よい効果を得る場合の、非常の処置を言う。「春秋公羊伝」の桓公十一年の条に、「権とは何ぞや。経(つね)に反して、然る後に善有る者なり」。また新出の鄭玄注に、「権なる者は、経(つね)に反して、義に合す。尤も知り難き也」。

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

 緊急避難的な措置、という意味のようです。


唐棣の華

 子罕第九(206~235)

235 唐棣之華。偏其反而。豈不爾思。室是遠而。子曰。未之思也夫。何遠之有。

(訓)唐棣の華、偏として其れ反(ひるが)える。豈に爾を思わざらんや。室、是れ遠きのみ、とあり。子曰く、未だこれを思わざるかな。何の遠きことかこれあらん。

(新)詩に、にわうめの花びら、ひらひらとひるがえる。とわに変わらぬわが思い、汝の室に届くまじ、あまりに道の遠ければ、とあり。子曰く、その思いはまだ本当の思いではない。道が遠くて届かぬようでは。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 遠距離恋愛の機微を孔子が解説するわけですが、こうした文学の解釈は関雎は楽しんでのところでも出て来ました。単なる恋愛の上っ面ではなく、そこにこめられた人間の思いを研究することが、孔子教団の主要科目であったからです。

 大意は兎も角細かい点では少しづつ解釈も違いますので、通釈の部分だけ列挙しておきます。

『唐棣(にわざくら)の花、ひらひらかえる。おまえ恋しと思わぬでないが、家がそれ遠すぎて。』

金谷治『論語』岩波文庫

 うめとさくらでだいぶ違いますよ。日本だと、ひらひら散るのは断然さくらと、こうなりますけれども。


「唐棣の花は無情なものであるけれども、ひらひら動いているところを見ると情があるようである。まして我は有情(ゆうじょう)の人であるから、どうして爾を思い慕わないことがあろうか。ただ居る所の室が遠くに隔たっているから、思うけれども相見ることができないのである。」

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 ちなみに、語釈によれば「唐棣はスモモ」。

 どうして、「はなびらひらひら」と「思い人」とが関連するのか、宮崎・金谷両先生はなにもいいませんが、宇野先生によれば動くところが動物の、人間のようだから、ですって。

 宮崎専制解釈ですと、遠くて「思いが届かない」わけですが、宇野先生だと遠くて「会いにいけない」となるわけです。金谷先生はどちらともいえませんが、まあ普通会いに行く、もしくは「かつぎにいく」のに遠い、とするのが普通でしょう。


「唐棣の花は開いたが、花弁がたがいに背を向けている。あなたを想わないであろうか。たがいの家が遠いため(に会えないの)だ」

加地伸行『論語』講談社学術文庫

 花びらに新解釈。散る様子ではなくてその花弁の構造が、離ればなれの二人のようにそっくりかえっているということらしい。(吉川先生の説明では、こちらが古注。花が揺れる、とするのが新注。)


にわざくらの花は、

ひらりひらりとゆれてるげな

(略)

おまえ恋いしと思わぬでないが

なにぶん家が遠いでな

吉川幸次郎『論語』上 朝日選書

 なぜ軽く訛っているのでしょう。解釈はこのあたりが妥当な線でしょうか。


唐棣の花がひらひらそよぐ

おまえ恋しと思っちゃいるが

家が遠くて会いには行けぬ

呉智英『現代人の論語』文藝春秋

 呉智英夫子は三連に大胆解釈。やってますな。内容は吉川先生と変わらないでしょう。

 よく読み返したら、「はなびらが散る」などと読み取ったのは私だけでした。

 私の解釈は、「唐棣の花びらが風に舞う。私も風に乗って君の所へ飛んでいきたい、といつも考えているんだよ。いつも考えているんだけれど、現実の、君の部屋は遠くて飛んでは行かれない。」

 この「風に舞う花びらのように僕も飛んでゆきたい」というのは呉智英夫子の著作で読んだような記憶があったのですが、手許の文庫本では見あたりませんね。

 恋人のもとへ飛んでいくといえば、師匠(マイスター)の弟子。

息子は父親でもある師匠の

彼はとても幸福だった。翼なしでも空に浮かぶことができるんだ、と思えるほどに。恋していたからだ。若者の胸のたけをつくして恋していた。遠慮することなく、疑いのかけらひとつもたずに、彼は恋していた。そして彼にはわかっていた。自分の恋が相手からも同じように受けいれられていることが。また彼にはわかっていた。恋人が彼を待っていることが。日が暮れて試験に合格した彼が、恋人の空色の部屋をたずねるだろうということが。そこで恋人はやわらかな月の光のように、軽やかに彼の腕に身をなげかけてくるだろう。そうしていつまでも抱きあったまま、ふたりは都市(まち)の上空に舞いあがり、大人になっていらなくなった玩具(おもちゃ)を捨てるように、都市の城壁をあとにするだろう。ほかの都市をつぎからつぎへと飛びすぎて、森や砂漠をこえ、山や海をこえて、どこまでも、世界の境界(はて)まで飛んでいくだろう。

エンデ『鏡のなかの鏡』岩波現代文庫

 閑話休題。

 孔子は、詩三百、思い邪なしというくらいですから、この詩の主人公の気持ちはその通りだとしても、その思いはまだまだ足りない、至純ではないと見抜きます。


 恋愛という限定をせずに言わせていただければ、「オレは本当はこうしたいんだけどこういうわけでさ…」というようないいわけをする人は、その「本当はこうしたい」が本気じゃないですよね。「遠いから」と理由をつける人は「電車賃がない」とか「今から行くと遅くなって先方に失礼だから」とかとにかくなんでもいいから、行くのを面倒くさがっている、つまりその程度の思いであるということなのでしょう。


 以上で、学問を志す者が尊ぶ『論語』上論、孔子が己を謙遜して人を誨(おし)えた辞(ことば)や言行交際や出処の類が多い「子罕」という第九章は終わる。