蜀犬 日に吠ゆ

2009-11-02

[][][][]郷党第十を読む(その3) 16:49 はてなブックマーク - 郷党第十を読む(その3) - 蜀犬 日に吠ゆ

君、召して擯せしむれば

 子罕第九(206~235)

238 君召使擯。色勃如也。足躩如也。揖所与立。左右手。衣前後。襜如也。趨進。翼如也。賓退。必復命。曰。賓不顧矣。

(訓)君、召して擯(ひん)せしむれば、色、勃如(ぼつじょ)たり。足、躩如(かくじょ)たり。与に立つ所に揖するには、手を左右にし、衣の前後は襜如(せんじょ)たり。趨(はし)り進むには翼如たり。賓、退けば必ず復命して曰く、賓顧みずなりぬ。

(新)君主に命ぜられて賓客の招待をする時は、緊張した面持ちになり、きびきびした足取りで歩む。並んで立つ同僚に会釈するとき、手を左右に向けるたびに、衣服の前後がひらひらと動く。小走りに足を運ぶ時は、羽を拡げたように軽快だ。客が帰ったあと、必ず復命して、後を振りかえれられなくなるまでお見送りしました、と言った。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 賓不顧を、普通には、客が満足したので顧みずに去った、のだと解釈するが、これはおかしい。賓客は立去る時に見送りの主人側に対し、時々振りかえって挨拶するのが礼儀であり、また賓客が遠ざかって最後の挨拶をするまで見送るのが、主人側の礼儀なのである。この所はそれを言ったもので、レッグ訳、華英四書にはこの箇所の本文を、

The visitor is not turning round any more.

と訳し、更にその説明として、

The ways of China, it appears, were much the same anciently as now. A guest turns round and bows repeatedly in liaving, and the host can not rerurn to his place till these salutaions are ended.

と注釈を加えているのは甚だ適切である。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 たいてい「(満足して)振り返らずに帰った」と解釈するのにたいして自説を披露する宮崎先生と、まっこうから対立する宇野先生。

○賓顧みず=古(いにしえ)は賓客が礼が畢(おわ)って出る時は回顧しないのが礼であったから、「賓は去って後を顧みません」と曰って、君の賓に対する敬礼をゆるめようとするのである。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 帰り道で振り返って挨拶するのが礼なのか、それとも回顧しないのが礼なのでしょうか。



 もちろん、この母里の説はどちらでもない

 というほど強く主張したいわけではありませんが、私の考えでは、礼の根本には直(素直な気持ち)と仁(思いやり)とがあるのですから、そこから考えた方がよいでしょう。


 まず始めに素直な心に従えば、用が済んだら未練がましくしないで帰路につくのが素直でしょう。もてなすがわも、あまりぐずぐずされると余計な気を回してしまいそうなのでさっさと帰ってもらった方がいいはずです。ですから、宇野先生がいうようにいにしえの礼はサッと来てサッと去る、「月光仮面ルール」が適用されたことでしょう。

 しかし相手を思いやる心が重視されるならば、客の方は招いてもらった感謝の気持ちを表現するため名残惜しそうにしてみたり、もてなすがわは何か不備があったろうかと心配なので見えなくなるまで見送る、のでしょう。


 以上を踏まえて考えても、前者→後者の順に礼が発展したように考えるのが自然ではないかと思います。孔子は「直」「仁」どちらかに偏ると言うことのない君子ですから、尚古の立場は通しつつも虚飾に見えがちな思いやりの形式化にも理解を示したことでしょう。

 ですから、母里が思うに、実際の客は振り返り振り返り帰ってゆき、孔子もずっと見送った、そして復命では「お客様は満足でお帰りでした」と報告するのではないでしょうか。事実ではなく、その裏の心を汲んで報告する、これも礼の一環ではないでしょうか。


 そのほかの「○如」形容については、宮崎先生の解釈で十分かと思います。