蜀犬 日に吠ゆ

2009-11-04

[][][][]郷党第十を読む(その4) 20:29 はてなブックマーク - 郷党第十を読む(その4) - 蜀犬 日に吠ゆ

公門に入るには

 子罕第九(206~235)

239 入公門。鞠躬如也。如不容。立不中門。行不履閾。過位。色勃如也。足躩如也。其言似不足者。摂斉升堂。鞠躬如也。屏気似不息者。出。降一等。逞顔色。怡怡如也。没階。趨進。翼如也。復其位。踧踖如也。

(訓)公門を入るには、鞠躬如たり。。容れられざるが如し。立つこと門に中(あた)らず、行くに閾を履(ふ)まず。位を過ぐるには、色、勃如たり、足、躩如たり。其の言は足らざる者に似たり。斉(もすそ)を摂(かか)げて堂に升(のぼ)るには、鞠躬如たり。気を屏(ひそ)めて、息せざる者に似たり。出でて一等を降れば、顔色を逞(はな)ち、怡怡如(いいじょ)たり。階(きざはし)を没(つく)して趨り進むには、翼如たり。其の位に復(かえ)りては、踧踖如たり。

(新)宮殿の正門を入るときには、前かがみに頭を下げて、天上がつかえたよう。門の中央では立ちどまらず、閾をまたぐ時に足で履まない。君主の座席の前を通るときは、顔付きがひきしまり、きびきびした足取りになる。口を利くには言葉短くすます。裾をつまんで階段から堂に上るときは、前かがみに頭を下げ、口をつぐんで息をのみこんだよう。堂から下りる時は、一階下るごとに、安堵の色が現われて、のびのびした顔付きになる。降りきって、小走りに進む時は、軽快に羽が生えたよう。庭中の自己の座席に戻ってくると、落着いた顔色にかえる。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 宮崎先生の解釈は前後の章句と比べて毎回訳語が違います。「趨進。翼如也。」が、「小走りに足を運ぶ時は、羽を拡げたように軽快だ。」になったり「小走りに進む時は、軽快に羽が生えたよう。」になったり。天使などでも、両手と袖を翼とするか、背中に翼があるとするかで結構造形は異なってくるのですが。大意としては変わらないからいいか。


 「鞠躬」は双声ですよね。「キツキツ」な語感は日本語とも共通しそうです。

 ただ、郷党篇冒頭では「宗廟、朝廷にあるや、便便として言う」と言っていたのに、今回「其の言は足らざる者に似たり。」となったのは、祝詞(っていうのか知りませんが)をあげる担当ではなかったのでしょうか。


 閾を踏まないのは現代日本でも常識に属する礼儀作法ですね。畳のへりも踏んだらいかんのですぞ