蜀犬 日に吠ゆ

2009-11-29

[][][][]先進第十一を読む(その2) 21:16 はてなブックマーク - 先進第十一を読む(その2) - 蜀犬 日に吠ゆ

陳蔡に従いし者

 先進第十一(254~278)

255 子曰。従我於陳蔡者。皆不及門也。徳行。顔淵。閔子騫。冉伯牛。仲弓。言語。宰我。子貢。政事。冉有。季路。文学。子游。子夏。

(訓)子曰く、我に陳蔡に従いし者は、皆門に及ばざりき。徳行には顔淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓。言語には宰我、子貢。政事には冉有、季路。文学には子游、子夏ありき。

(新)子曰く、陳蔡の間で難にあった時、弟子たちは誰ひとり、城門で追いついた者がなかった。徳行には顔淵。冉伯牛、仲弓。外交の応対には宰我、子貢。政治には冉有、季路。文学には子游、子夏があった。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 不及門の解釈は色々に分れている。鄭玄の説では、門を仕進の門とするから、不及門をもって仕官することなく、その所を得ずにいたと解する。朱子は孔子の門とし、不及門とは、今や死散して格子の門に至る者がなくなったと解する。

 しかし及という字は、追いつくのが原義であり、門は一字で城門を意味すること、132に見ゆる如くである。左伝、宣公十四年の条に、

 剣及于寝門之外。  剣は寝門の外に及ぶ。

 とあるのは、従者が剣を持って走り、寝門の外で追いついて手渡した意味である。そこで私は論語のこの条も、弟子たちが散り散りに打成され、誰ひとり孔子が城門に入る時に追いついた者はいなかったという意味にとりたいと思う。つまり、275に、顔淵後(おく)る、とあるのと似たような意味である。孔子の追憶として最も適切ではないかと思う。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 金谷先生はこの章句を二つに分けます。つまり、前段「者也」までで一生。

 先生がいわれた、「陳や蔡にわたくしについていったものは、もうすっかり門下にはいなくなったね」

金谷治『論語』岩波文庫

 つまり朱子を踏襲しているわけですね。晩年、孔子が若い弟子たちを見わたして、昔の弟子を偲んだのでしょう。

 こうして二つに分けるのは、金谷先生と吉川先生。


 後段は、いわゆる「孔門十哲」。そうした昔の弟子たちで、思い出すのは……という風情でしょうかね。

 以上の徳行、言語、政事、文学の四範疇は、孔門の四科と呼ばれる。この四つを人間の才能の表現のうち、もっとも重要なものとする思想は、後代にも影響しているのであって、たとえば、五世紀に編集された説話集「世説新語」は、当時の人物の興味ある挿話を、三十六の部門に分けて集録するが、三十六部門のはじめ四つは、徳行、言語、政事、文学であり、そのあと、方正、雅量などがつづく。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 ここにあげられた十人の弟子は、孔門の十哲と呼ばれる。「史記」の「孔子世家」に、「孔子志書礼楽を以って弟子に教う。蓋し三千なり焉」というように、孔子の弟子はひろく数えれば三千人であり、「世家」はさらに、そのうち「身六芸に通ずるものは七十有二人」というが、更にもっとも傑出した人物をえらべば、この十人になるのであろう。司馬遷も、「史記」の「仲尼弟子列伝」のはじめでは、「孔子曰わく、業を受けて身通ずる者は七十有七人、皆な異能の士なり。徳行には顔淵、閔子騫……」云云と、すなわちこの条を記録する。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 ところで問題は、孝行を以って有名な曽参の名が、「徳行」の条下に見えないことである。また顓孫師(せんそんし)、字は子張なども、「論語」のあちこちにしばしば名が見えるのに、ここには見えない。

 そこで新注ではこの条を、前の「子曰わく、我れに陳蔡に従う者は、皆な門に及ばざるなり」につづけ、弟子の全部でなく、陳蔡の旅行に随行した者の中で、徳行は顔淵以下云云なのだとする。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 余談。「それは残念閔子騫」という地口はこの「徳行顔淵閔子騫…」から来ているんですよね。「ザンネン」と「ガンエン」が韻を踏んでいるから。