蜀犬 日に吠ゆ

2009-11-30

[][][]伝奇のセオリー~~田中芳樹『とっぴんぱらりのぷう』光文社(その2) 23:44 はてなブックマーク - 伝奇のセオリー~~田中芳樹『とっぴんぱらりのぷう』光文社(その2) - 蜀犬 日に吠ゆ

 纐纈城奇譚の悪口を書かねばならない宿業を背負っているので、外堀を埋めます。うっかり消さないようにしたいものです。

とっぴんぱらりのぷぅ

とっぴんぱらりのぷぅ

偉大なりワトソン君

田中 伝奇ミステリーの原型とも言えるでしょうね。横溝正史作品なら、「かつてこの土地の悪辣な領主が……」というような。それこそ”バスカヴィル家”のテイストですから。

 作者のアーサー・コナン・ドイルがよく知りもしなかった日本という国で、こんなにいろんなものが生まれてくるのもおもしろいですね。

 ――作品の特徴として、伝奇ものとしての色合いが濃いということですね。

田中 長篇ミステリーの条件として言われていることがありますね。まず発端の「怪奇性」。それから途中の「サスペンス」。そして最後の「合理性」と。まさに『バスカヴィル家の犬』という作品そのものなんです。

 ――たしかに怪奇性が高いです。ホームズものって、比較的理屈が先行しているイメージがあるのですが、その中では異色と言えるんでしょうか。

田中 いや、ドイルはこういう話、大好きだったんですよ。発端の怪奇性という条件をつきつめていくと、ディクスン・カーあたりになるわけですが。

 最初に得体のしれない謎、その謎に恐怖がともなっていればなおよろしい。そこに、非常にもっともらしい伝承を織りこんでいく。そして中盤で、謎の賊に襲われたり、館が燃え落ちたり、不気味な犬の鳴き声がしたり。で、最後にはすべてにきれいな解決がつくということですね。そういう意味で非常にバランスのとれた、模範的な作品です。

 ――合理性、推理の過程……そこに書き手の姿勢が表れますね。

田中 最後に謎が合理的に解決すれば本格推理になるし、そこに宇宙人が出てくればSFになるわけです。いや、『サイン』という映画なんか見てると、宇宙人出せばいいもんじゃないぞと思うわけですが(笑)。

 ――やはり読む側が納得できないとB級どまりになると。

田中 逆に言えば、発端で怪奇、中盤でサスペンス……と展開してきて、さてどうやってラストで読者を納得させるかということでしょうね。ミステリーならミステリー、SFならSF、ファンタジーならファンタジーなりの、作者の腕力みたいなものが非常に試されると思います。パターンが決まっているなら、それをいかに自分だけの芸として見せていくか。簡単に「同工異曲」なんて言うけど、実は「異曲」の部分が読ませどころなんです。

 ――なるほど。たとえばクイーンが書いたら、こんなふうにはならないんでしょうか。

田中 いや、クイーンでも、短篇なら案外あるんです。「神の灯火」とかね。陰々たる雰囲気の中で、信じられないような奇怪なできごとがおこります。

 ――たくさんあるホームズものの中から、とくに『バスカヴィル家の犬』をあげていらっしゃるというのは、田中さん自身がお好きだということでしょうか。

田中 もちろん好きですよ(笑)。話づくりのたくみさ、それと舞台設定のうまさ。実際、子どもは「ダートムーア」という地名をこれでおぼえますから。

 ――雰囲気のある響きですね。

田中 ダートムーアを舞台にして、いろんなものが書かれたけど、結局これ以上のものってないですしね。実のところ晴れた青空の下で見れば、なんてことはない景勝地だったりするんです。そこを描写によって、もっと魅力……あるいは魔力をもつように見せているし、またそれにふさわしい季節や気象を、考え尽くして設定しているんですよ。

 ――なるほど、それこそが舞台づくりなんですね。

田中芳樹『とっぴんぱらりのぷう』光文社

 「眼高手低」とは……いや違う。田中先生は腕力もあるはずなのに……どうして纐纈城は……


 あと書きうつしていて思ったのは、「JOJO第一部」は、まさにこの通りの伝奇作品ですね。石仮面という人智を超えた「怪奇」を提出しておいて、ディオの野望とリンクさせる。「石仮面は時を待つ」というコマはそのために必要だったのですね。で、ディオが吸血鬼の力に気づいてから「サスペンス」篇。原義は「ちゅうぶらりん」のあやふや状態のことですが、ここでは「生きるか死ぬか?」のことでしょう。ディオがジョージを殺してジョースター邸が炎に包まれる。そして、「解決編」。ここがバトル展開になるのがジャンル「ジャンプ」。もともとジョジョって、起承転結とか序破急とかそういう物語の構造を解体する楽しみ方をしてこなかったのですが、西洋伝奇の伝統だったのですね。ツェペリさんが謎を解き明かし、あとはクライマックスまで登りつづける!


 嗚呼、日々精進、日々悟り。


 だから! 田中先生はもっと纐纈城を面白くできた!

 悪口は後述。



[][]自由は心の科学~~森博嗣『自由をつくる 自在に生きる』集英社新書 22:10 はてなブックマーク - 自由は心の科学~~森博嗣『自由をつくる 自在に生きる』集英社新書 - 蜀犬 日に吠ゆ

 森先生は「MLA」ばかり読んで小説にはほぼ興味がないのです。すみませんね。あと「変問自在」も読みました。

自由をつくる 自在に生きる (集英社新書)

自由をつくる 自在に生きる (集英社新書)

 で、森先生いつものはなし。

 さて、そもそも自由とは何なのか?

 辞書を引いてみよう。この言葉の意味を知らない日本人はいないと思う。英語では、freeやfreedomである。freeは「無料」の意もあって、つまりは(お金を払うなどの)「制限を受けないこと」を示す。日本語の「自由」は、英語とは本来ニュアンスが違っていて、「自在」に近いようにも思う。すなわち、「思うがまま」という意味だ。「剣豪が刀を自由に扱う」というふうに使われる。

森博嗣『自由をつくる 自在に生きる』集英社新書

 まさにこのとおりで、自由というのは、「空を自由に飛びたいな」「飛べばいいじゃん」の世界であるべきでしょうね。それを、「私が空を飛べないのは誰それのせいだ! 誰それが悪いから私は飛べないのだ!」的な無駄事を主張する人がいて、私などは辟易する。飛びたいなら飛べばいいし、現代日本て、人類の歴史の中でもかなり自由に近いと思います。


 本当に自由になるためには、科学を自分の物にしなければならない。

仏教は心の科学  (宝島社文庫)

仏教は心の科学 (宝島社文庫)




[][][][]先進第十一を読む(その3) 21:05 はてなブックマーク - 先進第十一を読む(その3) - 蜀犬 日に吠ゆ

回や、我を助くる者に非ざるなり

 先進第十一(254~278)

256 子曰。回也。非助我者也。於吾言無所不説。

(訓)子曰く、回や、我を助くる者に非ざるなり。吾が言において説ばざるところなし。

(新)子曰く、顔回は私の学問にプラスすることができぬ男だ。私の言うことに、ああいちいち賛成してしまわれては。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 この章は孔子が顔淵の道を悟ることを賞めたのである。

 憾(うら)んだような言い方をしているが、その実は深く喜んでいるのである。(朱子)

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 朱子せっかくの擁護発言ですが、本当でしょうか。私の解釈はまたちょっと違いますね。

(いつもの画像)

 子游のように冗談を本気にしたり、子夏のように喩え話を即座に敷衍したりといった当意即妙は、顔回にはなかったのでしょう。顔回の性格からすれば夫子の言葉を聞いたら疑問を覚えてもまず実践し、自分の物としてゆき、改良を加えても疑問が残って初めて孔子に質問する、それは孔子が最初にした発言とはまったく異なるようにも見える質問だったことでしょう。だから、おそらく表面的には顔回は先生のいうことを聞いているのかも分からずにぼんやり座っているだけの男だと思われたのでないでしょうか。もちろん孔子はそういう顔回のことを知っていたので彼の能力を十分に評価してはいました。為政第二「回や愚ならず」参照。


 そこで、「非助我者也」。これは、「私の学問を助けてくれない」ではなく、「私の教育を助けてくれない」、と解釈してはどうでしょう。孔子が顔回に教えるとき、とうぜんまわりには他の弟子たちもいます。談論風発といきたい孔子にとっては、思いつきでものをいう宰予のような存在も必要としますが、どうも議論が深まらない、むしろ話題がそれてどうもお説教になってしまう。顔回がもうちょっと発言してくれればなあ、と思ったのではないでしょうか。

 (そうすると為政第二発するに足るというのも、「発言するだけの実力は十分にある」、という意味かも知れませんね。)

 孔子としては顔回を賞めたい、他の弟子たちに顔回を見習えといいたいのですが、弟子たちはどうしても才気煥発な子貢や子路の方へなびいてしまう。もうちょっと、私にずけずけ言うくらいの積極性があったら、という感じだったのではないでしょうか。