蜀犬 日に吠ゆ

2009-11-30

[][][][]先進第十一を読む(その3) 21:05 はてなブックマーク - 先進第十一を読む(その3) - 蜀犬 日に吠ゆ

回や、我を助くる者に非ざるなり

 先進第十一(254~278)

256 子曰。回也。非助我者也。於吾言無所不説。

(訓)子曰く、回や、我を助くる者に非ざるなり。吾が言において説ばざるところなし。

(新)子曰く、顔回は私の学問にプラスすることができぬ男だ。私の言うことに、ああいちいち賛成してしまわれては。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 この章は孔子が顔淵の道を悟ることを賞めたのである。

 憾(うら)んだような言い方をしているが、その実は深く喜んでいるのである。(朱子)

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 朱子せっかくの擁護発言ですが、本当でしょうか。私の解釈はまたちょっと違いますね。

(いつもの画像)

 子游のように冗談を本気にしたり、子夏のように喩え話を即座に敷衍したりといった当意即妙は、顔回にはなかったのでしょう。顔回の性格からすれば夫子の言葉を聞いたら疑問を覚えてもまず実践し、自分の物としてゆき、改良を加えても疑問が残って初めて孔子に質問する、それは孔子が最初にした発言とはまったく異なるようにも見える質問だったことでしょう。だから、おそらく表面的には顔回は先生のいうことを聞いているのかも分からずにぼんやり座っているだけの男だと思われたのでないでしょうか。もちろん孔子はそういう顔回のことを知っていたので彼の能力を十分に評価してはいました。為政第二「回や愚ならず」参照。


 そこで、「非助我者也」。これは、「私の学問を助けてくれない」ではなく、「私の教育を助けてくれない」、と解釈してはどうでしょう。孔子が顔回に教えるとき、とうぜんまわりには他の弟子たちもいます。談論風発といきたい孔子にとっては、思いつきでものをいう宰予のような存在も必要としますが、どうも議論が深まらない、むしろ話題がそれてどうもお説教になってしまう。顔回がもうちょっと発言してくれればなあ、と思ったのではないでしょうか。

 (そうすると為政第二発するに足るというのも、「発言するだけの実力は十分にある」、という意味かも知れませんね。)

 孔子としては顔回を賞めたい、他の弟子たちに顔回を見習えといいたいのですが、弟子たちはどうしても才気煥発な子貢や子路の方へなびいてしまう。もうちょっと、私にずけずけ言うくらいの積極性があったら、という感じだったのではないでしょうか。