蜀犬 日に吠ゆ

2009-12-14

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閔子、側に侍す

 先進第十一(254~278)

265 閔子侍側。誾誾如。子路。行行如。冉有。子貢。侃侃如。子楽。若由也。不得其死然。

(訓)閔子、側に侍す、誾誾如たり。子路、行行如たり。冉有、子貢、侃侃如たり。子楽しむ。由の若くんば、其の死然を得ざらん。

(新)孔子に陪席する人たちのうち、閔子は裃をきたように四角ばっており、子路は意気軒昂たるものがあり、冉有、子貢は人なつこい顔をしていた。孔子もいと満足気であった。(子曰く)由のようだと、畳の上で死ねそうもないのが心配だ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 また、宮崎先生ってば、「畳の上で」ですって。ははは

 論語解題で、宇野先生が紹介するには、

先進第十一

(解説)この篇は多く弟子の賢か不賢かを評してある。すべて二十五章ある。胡寅(こいん)は「この篇に閔子騫の言行を記した所が四箇所あるが、その中(うち)の一箇所では閔子騫に対して閔子という敬称を用いているから、あるいは閔子騫の門人が記録したのではあるまいか」と曰(い)っている。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 擬態語については、結局よく分からないので宮崎先生の解釈の通りに受けとっておきます。侃侃如。誾誾如。踧踖如、与与如。によれば、孔子は目下の人に侃侃如、目上には誾誾如、とありますから、兄弟子である冉有や子貢がゆったり落ち着いて、閔子騫がきっちりしているのはそのとおりですね。

 子路は「行行如」。それに対する子の批評。

ここにいる人たちの中で、由よ、つまり子路よ、お前は「其の死を得ざるがごとく然り」。最後の然の字の文法的な取り扱いは、充分にあきらかでない。徂徠は邢昺が、焉の字と同じであるするのに賛成する。「不得其死」、其の死を得ずとは、普通の死にかたを獲得できない、という意味に諸説が一致しているが、しからばそれはたいへん強烈な批評である。その強烈さをゆるめるものとして、最後にあるのが、「然」の字であるにはちがいない。そうしてこの強烈な言葉が、孔子の語であることを明示する物として、皇侃の本のみ、「曰、若由也、不得其死然」と、「曰」の字があり、他の本にはないが、なくても、孔子以外の人の言葉ではあり得ない。朱子は一説として、「子楽」を「子曰」の誤りとする。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 しかし、後世のわたしたちはすでに子路の最期を知っているから強烈な、残酷な批評であると感じてしまう部分もあるのではないでしょうか。言葉は過激ですが、もうすこしたしなめるような、軽い言い方であったかも知れません。そうとでも取らなければ、儀式の時に漏らした言葉として、悲愴すぎる感があります。



魯人、長府を為らんとす

 先進第十一(254~278)

266 魯人為長府。閔子騫曰。仍旧貫。如之何。何必改作。子曰。夫人不言。言必有中。

(訓)魯人、長府を為(つく)らんとす。閔子騫曰く、旧貫に仍(よ)らば、これを如何せん。何ぞ必ずしも改め作らん。子曰く、夫(か)の人言わず、言えば必ず中(あた)るあり。

(新)魯国で宝物庫を改築した。閔子騫曰く、もともままにしておいて、何故いけないのだろう。別に改築する必要はないのに。子曰く、彼の人は滅多に発言しないが、発言するときはいつもいいことを言う。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 長府とは、「長という名の府」、ということだそうです。

長府を為る=為るは新たに改作したこと。府は金玉布帛の類を蔵(おさ)める倉庫。長はその倉庫の名。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 というわけで、閔子騫が「補修すればまだつかえるだろうに、なぜ改築したのか」といい、孔子がそれをほめました、と。

 なににしても、この条は、保守的な政治家が、しばしばその主張の論拠として来たこと、いうまでもない。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 いまはむしろ、リベラル派の方が緊縮予算を主張します。時代は変わった。

 どちらかといえば主題は、

 妄に発言しないが、発言すれば必ず理に当るというようなことは、ただ有徳者だけにできることである。(朱子)

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 異説。

 異説は、「長府」の二字が、「春秋左氏伝」の昭公二十五年の条にも見えることから、発生する。そこには、家老季氏の下克上にたえかねた魯の昭公が、反抗の兵を挙げたとき、魯の都における拠点としたのが、「長府」という場所であったと記す。「公は長府に居る」。ちょうど保元の乱に新院崇徳上皇が白河殿拠点としたような関係である。新院が失敗したように、昭公の抵抗も失敗して、国外へ亡命するのであるが、清儒のあるものは、ここの閔子騫の発言をも、「左伝」のその事件に関係させ、「長府を為る」とは倉庫を増改築したのではなく、事件が落着したあと、家老の季氏は、「長府」というこの場所、それは倉庫であるよりも、離宮であったかもしれないが、それが再び叛乱軍の拠点になるのを恐れ、その規模を縮小したのであり、それを閔子騫が非難したのだとする清の翟灝(てきこう)の説、その他が、劉宝楠の「正義」に引用されている。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 叔孫昭子(叔孫婼(しゃく)))が闞(かん)に赴くと、公は長府に居を移し、九月戊戌の日、季氏の邸を攻めて、(平子の弟)公之を門で殺し、ついで邸内に進入した。平子は高楼に登って、

 「君(わがきみ)は臣(わたくし)の罪を取調べもなさらずに、干戈もて臣を討てと役人に命じられましたが、(東辺の)沂水(ぎすい)の岸辺でお待ちする間に、どうか罪をお取調べ願います」

と請うたが、昭公は許さない。「(季氏の封邑の)費で謹慎させてほしい」と請うたが、許さない。「車五輛で亡(に)げさせてほしい」と請うても許さない。子家子(子家懿伯)が、

 「どうか許していただきたい。政令が季氏より発せられること久しく、窮民の多くは季氏から食物を恵まれ、それに随従する者も多数おります。日が暮れるとどんな悪人が出て来るか予測できません。多数の怒りは蓄(ため)てはおけぬもの。蓄ったものをうまく処理せぬと醗酵する。醗酵が蓄ると、民に離叛の心が生じる。離叛の心が生じると、志を同じくする者が合体します。君はきっと後悔なさいますよ」

と言ったが、公は聴き入れず、郈孫(郈昭伯)は、「季平子を絶対に殺せ」と言う。公は郈孫を派して孟懿子(仲孫何忌)を迎えに行かせた。

小倉芳彦『春秋左氏伝』下 岩波文庫 p257-

 長府に陣どった昭公、優勢です。天皇御謀反は、大陸では普通ですからおそろしい。

 このあと、叔孫氏が季孫氏に与することで昭公は一気にピンチに落ちてゆくわけですが、長府はたしかに戦略上の拠点としても重要だったのかもしれないですね。