蜀犬 日に吠ゆ

2009-12-16

[][]34 糧を求める 20:48 はてなブックマーク - 34 糧を求める - 蜀犬 日に吠ゆ

34 糧を求める(喫糧)

 孔子が陳の国で兵糧攻めにあい給い、弟子の顔回に回々(ホイホイ)国(アラビア)に糧を借りに行くよう命ぜられた。彼の名とその国号と同じ好(よし)みで、同情を寄せてくれるだろうと期待されたからである。ところが行ってその旨を通じると、かの国では大いに怒って、

「なんじ孔子は夷狄を攘(はら)わんと欲し、われら回々を怪しんでいる。現にお前のことさえ罵って『回の人と為りや択(ツェイ)(賊)か』といった。糧は断じて与えるわけに行かぬ」

 との返事に、顔子はべそをかいて帰って来た。

 すると子貢が自分をやって下さいと申し出た。自分はかねて彼らのごきげんを取って、「賜(子貢の名)や何ぞ敢て回々(ホイホイ)を望まん」といつもいっているから大丈夫だというのだ。果たして回々国の人々は大いに喜んで、とりあえず白米一担を持ち帰らせ、あとからどんどん送ってあげますと約束してくれた。子貢が帰ってそのことを孔子に述べると、孔子は眉を寄せていわれた。

「糧は一担かたり取ったが、ただ文理が通ぜぬぞ」


 注 『中庸』の「回の人と為りや中庸を択えべるか」および『論語』の「賜や、何ぞ回(顔回)を望まん」の語をかけている。

馮夢竜撰・松枝茂夫訳『笑府』中国笑話集(上) 岩波文庫1983

 一を聞いて十を知るにはこんな深謀遠慮が。やっぱり子貢はすごいッス。


 それと、回々国は回紇(ウイグル)だと思うので、イスラムつながりですが大食(タージ)で表記されるアラビアとは別物ではないかと愚考します。

全訳 笑府―中国笑話集〈上〉 (岩波文庫)

全訳 笑府―中国笑話集〈上〉 (岩波文庫)



[][][][]先進第十一を読む(その13) 20:53 はてなブックマーク - 先進第十一を読む(その13) - 蜀犬 日に吠ゆ

過ぎたるは猶お及ばざるがごとし

 先進第十一(254~278)

268 子貢問。師与商也孰賢。子曰。師也過。商也不及。曰。然則師愈与。子曰。過猶不及。

(訓)子貢問う、師と商と孰れか賢(まさ)れる。子曰く、師や過ぎたり。商や及ばず。曰く、然らば則ち師愈(まさ)れるか。子曰く、過ぎたるは猶お及ばざるがごとし。

(新)子貢が尋ねた。師と商とでは、何方が上ですか。子曰く、師は行きすぎる方だし、商は不足する方だ。曰く、それなら師の方が上ですか。子曰く、行き過ぎと不足とに上下はない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 中庸、ですね。

 子貢、すなわち弟子の端木賜が、孔子にたずねた。師というのは、弟子の子張の実名であり、商というのは、弟子の子夏の実名であるが、この二人は、どちらが、よりすぐれていましょうか。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 孔門十哲で文学の才を賞められた子夏(卜商)と、そこにふくまれないことを吉川先生がいぶかしむ子張(顓孫師)。子夏のほうが4歳年上、子貢はさらに13歳上ですが、若くして孔門の未来を担うべきホープとして、子貢がこの二人に期待をかけていたのでしょうね。


 孰shu の字は誰shui と同じく、sh- を子音とする言葉であって、だれ、どの人物、どちらの人物、というふうに、人物についての疑問詞として使うのが、「論語」のより多い例であり、ここでもそうである

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

「賢」の字は、日本語のかしこい、つまり知恵の優秀さという狭い意味ではない。ひろく人格乃至は能力の優秀さをいう言葉であって、すぐれた人物、えらい人物という訳が、おおむねの場合に該当する。一人の人物を対象としての評価として、この字が下されることもむろんあるが、二人の人物のいずれが、より優秀であるかを比較評価する場合に、しばしばこの字がつかわれる。孰れか賢(まさ)れる、という伝統的な和訓は、そうした気持から出る。のちの陽貨第十七の、「博弈なる者有らずや。之れを為すは猶お已むに賢れり」(本冊二八一頁)、勝負事というものが、あるじゃないか。何もしないであそんでいるよりましだ。そこの賢の字と似た用法である。

 また句全体の表現としては、公冶長第五の、子、子貢に謂いて曰わく、女与回也孰愈、女(なんじ)と回やと孰れか愈(まさ)れる、と同じ句法である(上冊一三三頁)。あちらのように「愈」の字ならば、比較の意味は一層明瞭になる。どちらも対話の相手が子貢であるのは、無意味ではないかもしれない。子貢は、のちの憲問第十四に、子貢人を方(たくら)ぶ、と見えるように、他の人物の比較批評を好む性癖があった。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 しかしこの、兄弟弟子たちに対するライバル目線が、子貢が教団運営に眼をむけたときに役に立ったのではなかろうかと思うので、あながち悪い癖でもなかったのではないでしょうか。孔子は顔回、次に子路あたりを後継として考えていたのかも知れませんが、とかくこの世はままならぬものです。答え3。


この「不及」を不足、すなわち良くないという意味に誤解し、「過ぎたる(多すぎる・しすぎる)は(なお)及ばざる(良くない)がごとし」として、多いことやしすぎのほうを非難する意味によく誤用される。

加地伸行『論語』講談社学術文庫

 たしかに、子貢の質問を抜いて「過ぎたるは及ばざるがごとし」というのは諺として定着していますから、「及ばず」を価値判断であると間違えるというのはありそうです。本来は「過ぎる」と「及ばざる」がどっちもどっち、という意味ですが、「過ぎる」は「よくない」よ、というのは、私も間違えそう。気をつけます。