蜀犬 日に吠ゆ

2009-12-25

孔子

[][]河田清史『ラーマーヤナ』下 レグルス文庫 第三文明社(その3) 20:25 はてなブックマーク - 河田清史『ラーマーヤナ』下 レグルス文庫 第三文明社(その3) - 蜀犬 日に吠ゆ

ラーマーヤナ―インド古典物語 (下) (レグルス文庫 (2))

ラーマーヤナ―インド古典物語 (下) (レグルス文庫 (2))

  • 六の巻
    • クンバーカルナの死
      • 夜空をつくり出すラーマの有名な三つの矢で、インドラジットのニクムビラのお祈りは効力を発揮することができない。
        • 日が没すると悪魔が力を使えなくなる、というのが少し意外。一方で夜のうちにラクシマナの治癒をすませなければならなかったり。
      • ラーバナは、弟の巨人クンバーカルナを眠りから起こす。
      • ビビシャナは、クンバーカルナが不死に十分な六ヶ月の眠りをとっていないことをラーマに伝え、ラーバナとランカの国のために嘆く。」
      • 巨人クンバーカルナは鼻から毒の煙を出し、一度に何千という猿をけり殺し、息をするごとに猿の群をすいこんで食べてしまう。半日でラーマ全軍の四分の一が悪魔の餌食になる。
      • ラーマはハニュマーンとともにクンバーカルナに挑み、ダンボリという雷の投げ矢をクンバーカルナの口に投げ入れ、さらに大おのでクンバーカルナの両腕と、そして首を切りおとす。
    • インドラジットの計略
      • ラーバナと悪魔たちはクンバーカルナの死を悼む。ラーマ軍は、一ヶ月の停戦を許す。
        • また悠久の時の流れですよ。戦争中の、略式の喪とか、ちゃんと決めておけと言いたいですね。こんなことしていたら、ホントに十年、下手すると百年戦争になってしまいますよ。
      • インドラジットは、シータに似せた女を馬車に乗せて軍の先導をさせる。猿軍がシータを傷つけまいとひるむすきに、インドラジットの病の矢、死の矢、毒蛇の矢、瀕死の投矢が猿軍を襲う。
      • インドラジットはラーマを見つけるとシータの首を切りおとしてみせ、ランカの城内に戻る。
    • インドラジットの死
      • ちょうどこのころ、ビビシャナとラクシマナはランカの城内に忍び込む。ビビシャナは、殺されたシータがにせものであり、これはニクムビラの儀式を行う時間稼ぎであると知る。
      • アソカの森に入った二人はシータの声を聞く。
      • インドラジットのあとをつけたラクシマナは一騎打ちのすえ悪魔を倒す。
        • 「すると、どうしたことでしょう。このときインドラジットは胸もはりさけんばかりのよろこびのこえをあげたのです。これは神の子だと、どんな魂にもおきることですが――インドラジットの魂も悪魔のからだからときはなされて、地上の世界から無限の神の世界へ、このときとびさったのです。」
          • 死んだら神さまで、もう悪く言わないというのはインドでもそうなんですね。しかし、卑劣な計略を用い、仲間のはずの女悪魔を殺したインドラジットには、過ぎた天性ではないでしょうか。
          • あと、「悟空道」もこんな話でした。
    • インドラジットの葬送
      • 神がみのなかの大神であったインドラはどれいからときはなされ、たった一人ではありますが天国にかえる。
        • 征服した悪魔によって支配される、というルールなら、クンバーカルナが死んだときにたくさん神々が解放されてもいいような記がしますが、インドラジットという名前でspellboundだったのかもしれません。
      • ラーマは停戦の使者を送り、浜辺を葬式のために明け渡す。
    • ラーバナの最期
      • 停戦中も、ラーバナはあたらしい拷問の方法をかんがえてシータをいじめる。
        • 喪中になにやってんだ、さすが悪魔。というか、ラーマが悠久の時の流れにいすぎるのではないか。こればっかり。
      • 喪があけるとラーバナ自身が軍勢をひきいてラーマ軍に突撃をかける。
      • ラーバナは空飛ぶ馬車に乗り、そらから二十本の手で十本の矢をいかけてくる。ラクシマナはラーバナの腕四本と頭ふたつを射おとすが、自身も毒蛇の矢で負傷する。
      • ラーマはインドラの矢とかシバの神の怒りという矢や、太陽のほのおという矢や、月の吹雪という矢をいかけるが魔王におとされてしまう。
        • 大佐。どうもインドラの矢のイメージが違うのですが。
      • インドラは、ラーバナと同じく空飛ぶ馬車をラーマに送り届ける。御者のマトリは、ラーマにインドラ神からの伝言を伝える。それによると、ラーマは魔王を倒すためにこの世に生まれたのであり、矢づつのなかには、神の矢という、ラーマ自身がつくった矢が入っているはずである、と。
      • ラーバナは死の刃という矢を空いっぱいに飛ばし、マトリがそれを避けて走るなか、ラーマは「神の刃」をつがえました。
      • 空から「ああ、もうおそい、もうおそいよ」「ラーバナ、もうおそい、もうおそいよ」「魔王、もうおそいよ」というこえがして、魔王はすべての頭をつきぬかれてたおれる。
      • 神がみは自由のみになり、ランカは暗闇につつまれる。

これまでの、下巻の感想

下巻その1

下巻その2


上巻の感想

上巻その1

上巻その2

上巻その3

上巻その4




[][][][]先進第十一を読む(その19) 20:25 はてなブックマーク - 先進第十一を読む(その19) - 蜀犬 日に吠ゆ

顔淵、後る

 先進第十一(254~278)

275 子畏於匡。顔淵後。子曰。吾以女為死矣。曰。子在。回何敢死。

(訓)子、匡に畏(い)す。顔淵、後る。子曰く、吾れ女を以て死せりと為す。曰く、子在す。回、何ぞ敢て死せん。

(新)孔子が匡で災難に罹った。顔淵がはぐれて姿を消し、やっっとのことで追いついた。子曰く、お前はもう死んだのかと思っていた所だ。曰く、先生が生きておいでになる限り、回はどんなことでもして生きています。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 その後のことを知っているだけに泣ける話ですねえ。

 匡で危機に遭ったときの孔子の様子


 この章は顔淵の災難に処する道を述べたのである。

「匡人其れ予を如何せん。」といったのは孔子がこれを道に決したのである。「子在す。回何ぞ敢へて死せん。」といったのは顔子がこれを孔子に決したのである。各(おのおの)憑(よ)る所があるけれども、主とする所は同じである。(蒋畏庵)

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 このへんが、顔回の、孔子への尊敬が深すぎて逆に眼に見えない「道」を見るのが不足してしまう部分なのではないでしょうか。しかし、夫子も顔回を認めているのであんまり細かいことは言わない、と。イケナイ師弟関係ですね。もしも孔子がこの場で命運尽きたら、その後を次ぐべき人物は別行動をとるくらいのリスクヘッジがあってもいいのではないでしょうか。


 なお「匡に畏す」の畏の字について、訓詁を補足すれば、「礼記」の「壇弓(だんぐう)」篇上に、「死して弔わざるもの三つあり、畏、圧、溺」とあり、その鄭玄の注に、「畏」とは、むじつの罪によって攻撃され、弁解できずに死んだ場合のことであって、孔子がかりに匡で死んだとしたら、それが「畏」であるとする。それは「圧」すなわち危険な山道を通行しての圧死、「溺」すなわち無謀な水泳による溺死とともに、自己の生命を尊重しないための、軽率な死であるから、弔問しないと、説いている。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 右は、「畏」の字の訓詁の他の例として、「礼記」を引いたのであるが、「礼記」とこの条とを考えあわせれば、さらに二つの教訓を汲み取りうる。第一は、生命の尊重である。のちの衛霊公第十五の孔子の言葉には、「志士仁人は、生を求めて以って仁を害する無く、身を殺して以って仁を成す有り」と見え、武士道と結合した日本儒教では、この言葉のみが「論語」の教訓として、強調される傾きがあるが、実は論語の教えの全体ではない。「子在す、回何ぞ敢えて死せん」、この顔淵の言葉は、あんなにも自己の生命をいとおしまれる以上、私もあっさり死ぬわけには、まいりません、という意味を含みうる。第二は、不合理な暴力に対する合理的な抵抗の尊重であって、もし孔子が、このとき「畏死」したとするならば、「壇弓」の教えによる限り、弔問を受ける資格のない者、「弔われざる者」となったであろう。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 生きぬくことは、時につらいものですが、戦い抜くことが尊い、と。