蜀犬 日に吠ゆ

2009-12-30

[][][][]顔淵第十二を読む(その1) 16:23 はてなブックマーク - 顔淵第十二を読む(その1) - 蜀犬 日に吠ゆ

己に克ち、礼に復える

 顔淵第十二(279~302)

279 顔淵問仁。子曰。克己復礼為仁。一日克己復礼。天下帰仁焉。為仁由己。而由人乎哉。顔淵曰。請問其目。子曰。非礼勿視。非礼勿聴。非礼勿言。非礼勿動。顔淵曰。回雖不敏。請事斯語矣。

(訓)顔淵、仁を問う。子曰く、己に克ち、礼に復(か)えるを仁と為す。一日、己に克ちて礼に復えらば、天下仁に帰せん。仁を為すは己に由る、而して人に由らんや。顔淵曰く、其の目を請い問う。子曰く、非礼は視る勿れ、非礼は聴く勿れ、非礼は言う勿れ、非礼には動く勿れ。顔淵曰く、回、不敏なりと雖も、請う、斯の語を事とせん。

(新)顔淵が仁とは何であるかを尋ねた。子曰く、私心に打ち勝ち、普遍的な礼の精神に立ち返るのが仁だ。殊に主権者は、一日だけでも私心に打ち克って礼に立ちかえるなら、天下の人民はその一日中、その仁徳になびくものだ。仁は個人の心がけの問題だ。相手によって変るものではない。顔淵曰く、もう少し詳しい御説明を願います。子曰く、礼に違うことは見ようとするな。礼に違うことには耳を傾けるな。礼に違うことは口に出すな。礼に違うことに身を動かすな。顔回曰く、回には出来るかどうかは分りませんが、仰ったとおりに努めて見たいと思います。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 克己復礼を主権者がすれば、というのは他に記載がないのでおそらく宮崎先生の解釈。


 この章句の眼目は、「非礼勿視。非礼勿聴。非礼勿言。非礼勿動。」という戒めでしょうが、私としては、「為仁由己。而由人乎哉。」に注目したいです。とくに「而由人乎哉」。

 宮崎先生は「仁は個人の心がけの問題だ。相手によって変るものではない。」と解釈しますが、この部分、金谷先生や加地先生、吉川先生は仁は自分次第であり、人に頼ってするものではない、ととります。宇野先生も「己自身の修行によることで他人に関係のあることではない。」とするので後者に近いといえるでしょう。

 人を頼りにする、というよりも、世間一般では「自分がよいことをしないのを、他人のせいにする」人のほうが目立っているようであります。ひどいときには、悪いことをしたときでさえ。孔子の弟子たち、特に顔回との会話の中ですから、そうしたことは想定せずに夫子もこうおっしゃったのだと思いますが、私は、むしろこういう、出来ないことを人のせいにするほうを気をつけなければいけないのでしょうね。


 程子はこの章の「非禮勿視・非禮勿聽・非禮勿言・非禮勿動」は後世の聖人を学ぶ者の服膺すべきものであるとして視箴・聽箴・言箴・動箴の四箴を作って自ら警しめた。四箴は古文真宝などに載せてある。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 情報化社会、なのでこうした意識は昔以上に必要だと思います。また、浮世のしがらみで非禮勿動を破戒してしまうこともあるかも知れません。その時も、無意識で状況に流されていては仁から遠ざかるばかりなのです。自重自重。