蜀犬 日に吠ゆ

2009-12-31

[][][][]顔淵第十二を読む(その2) 20:15 はてなブックマーク - 顔淵第十二を読む(その2) - 蜀犬 日に吠ゆ

門を出でては大賓を見るが如く

 顔淵第十二(279~302)

280 仲弓問仁。子曰。出門如見大賓。使民如承大祭。己所不欲。勿施於人。在邦無怨。在家無怨。仲弓曰。雍雖不敏。請事斯語矣。

(訓)仲弓、仁を問う。子曰く、門を出でては大賓を見るが如く、民を使うには大祭を承くるが如くす。己の欲せざる所は、人に施すことなかれ。邦にありて怨みなし。家にありても怨みなし。仲弓曰く、雍、不敏なりと雖も、請う、この語を事とせん。

(新)仲弓が仁とは何であるかを尋ねた。子曰く、家の門を一歩出たらば、いつも大事な賓客を接待するような張りつめた気持ち、人民を使役するにはいつも大切な祭祀を執行するような厳粛な態度。自分の欲しないことは、人に加えてはならない。一国の人民から怨まれることなく、一家の使用人から怨まれるようなことをしない。仲弓曰く、雍には出来るかどうかは分かりませんが、仰ったとおりに努めてみたいと思います。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 同じ質問でも、弟子によって答えが違うのは274 聞けば斯にこれを行うでも登場した、孔門の常識。

 顔回の場合は個人的な心構えとして「仁」が説明されました。これは顔淵が仕官ということに興味の薄い、恬淡な人柄であったためでしょう。一方、仲弓に対する説明、これは為政者の心構えですね。仲弓は、生まれが低い身分であったため実力を認められることがなく、孔子はそれをつねに残念に思っていたこと、雍也南面せしむべしでもおなじみです。そこでこういう説明になったのでしょう。


 この章句の内容は、ですから仁に居って務めを果たす方法。つねに気を抜くな、ささいなことであっても重大事と同じように執り行え、というのが「出門如見大賓。使民如承大祭。」。


 「己所不欲。勿施於人。」は、衛霊公第十五にほぼおなじ言葉があります。。

 子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎、子曰、其恕乎、己所不欲、勿施於人也

(書き下し省略)

 子貢がお尋ねしていった、「ひとことだけで一生行なっていけるということがありましょうか。」先生はいわれた、「まあ恕(思いやり)だね。自分の望まないことは人にもしむけないことだ。」

金谷治『論語』岩波文庫

 他人を、この場合は自分の配下の人たちでしょうけれども、働かせるときには、正々堂々と仕事をさせろ、という意味でしょう。自分の対面を取り繕って手下に汚れ仕事をさせる、などということのないように、という事でもあるかも知れません。恕とはすこし離れていますが。

 新約聖書には、この「裏」の事が書いてあります。MAT 7「求めなさい

マタイによる福音書 7

12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

新共同訳『新約聖書』ギデオン協会

 どちらかといえば、儒教の方がわたしの性に合うのは、こんなゆたかな日本なので、放っておいてもらいたい、放っておいてもらっても生きていけるからでしょうね。キリスト教は「大きなお世話さま」なんですが、生き延びる戦いをしなければならない状況では、こういう助け合う倫理の方が価値あるものとなるのでしょうね。


 そうすれば「在邦無怨。在家無怨。」となり、怨まれない、というよりかは怨嗟なく仕事がすすむ。という風な感じでしょうか。


 「雍雖不敏。請事斯語矣。」は顔回が前章で言ったのとおなじことばですが、定型的な答えだったのか、吉川先生が引く徂徠の説では「語」というのは、孔子の教えはどちらもことわざに基づいたものであったので、そのことわざ通り実践します、という答えになったのか、よく分かりませんが、謙遜して努力を誓った、という意味に変わりはないでしょう。