蜀犬 日に吠ゆ

2010-01-02

[][][]蛇の章~~『スッタニパータ』岩波文庫を読む 21:44 はてなブックマーク - 蛇の章~~『スッタニパータ』岩波文庫を読む - 蜀犬 日に吠ゆ

 『論語』と同時に始めた『サキャ格言集』。文庫本自体どこへいったやら……。

 というわけで、満を持して

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

 蛇の章から。


 読む前に、「三帰依」。

第一講 『ダンパマダ』への入り口

[礼拝文]

Namo Tassa Bhagvato Arahato Samma - Sambuddahassa.

ナモー タッサ ヴァガヴァトー アラハトー サンマー サンブッダッサ

(阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼したてまつる)

[三帰依文]

ブッダン・サラナン・ガッチャーミ(私は仏陀に帰依いたします)

ダンマン・サラナン・ガッチャーミ(私は法[真理]に帰依いたします)

サンガン・サラナン・ガッチャーミ(私は僧[仏教者の共同体]に帰依いたします)

釈徹宗『いきなりはじめるダンマパダ』サンガ

蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。


かの尊き師、尊き人、覚った人に礼したてまつる。

第一 蛇の章

一、蛇

一 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

二 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

三 奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

四 激流が弱々しい葦の橋を壊すように、すっかり驕慢を滅し尽した修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」。現実の人間であることの限界を超えることに、仏道の眼目があります。ただ、「この世とかの世」という、一番の眼目が、説明されませんし、脚注によれば解釈が分かれるところだと説明されていたので、ブッダきびしいなあ、と。ま、読んでいるうちにだんだん分かるようになるのでしょうか? 「読経百遍、自ずから通ず」を信じて読んでみましょう。


 というわけで、「怒りを制すること」「愛欲を断つこと」「妄執を涸らすこと」「驕慢を滅すこと」が語られます。いずれも、現在の自分やその境遇によって生じるこだわりでしかないので、脱皮するように捨て去らなければならないわけです。


[][][][]顔淵第十二を読む(その4) 19:48 はてなブックマーク - 顔淵第十二を読む(その4) - 蜀犬 日に吠ゆ

君子は憂えず懼れず

 顔淵第十二(279~302)

282 司馬牛問君子。子曰。君子不憂不懼。曰。不憂不懼。斯謂之君子已乎。子曰。内省不疚。夫何憂何懼。

(訓)司馬牛、君子を問う。子曰く、君子は憂えず懼(おそ)れず。曰く、憂えず懼れず。斯(ここ)にこれを君子と謂うか。子曰く、内に省みて疚(やま)しからずんば、夫れ何をか憂え、何をか懼れん。

(新)司馬牛が教養ある君子とは何かと尋ねた。子曰く、君子というものは憂えることがなく、懼れることのないものだ。曰く、憂えることなく、懼れることがないくらいで、すぐそれを君子と言えますか。子曰く、(問題はその前提にある。)内心に反省して一点も疚しい所のない人であって始めて、何も憂えることなく、何も懼れることのない人でありうるのだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 知者は惑わず。仁者は憂えず。勇者は懼れず。の時は、この言葉だけが示されましたが、ここではもうすこし詳しい解説がなされています。憂えたり懼れたりするのは、結局自分が自分の進むべき道を自信をもって歩んでいないからである、という教え。


 しかし、孔子はまたしても司馬牛を教え導くためにすこし遠回しな言い方で君子を説明。にもかかわらず、また軽率にオウム返しで質問してしまう司馬牛でした。さすがに司馬牛は、「言(ことば)多くて躁(さわ)がしき」性といわれるだけのことはあります。

 それでも、子罕第九の教えを聞いた人に比べれば、質問を発するあたりは立派。ですから孔子もその「発憤」をかって教えを施したのでしょう。