蜀犬 日に吠ゆ

2010-01-03

[][][][]顔淵第十二を読む(その5) 20:52 はてなブックマーク - 顔淵第十二を読む(その5) - 蜀犬 日に吠ゆ

四海のうち、皆な兄弟なり

 顔淵第十二(279~302)

283 司馬牛憂曰。人皆有兄弟。我独亡。子夏曰。商聞之矣。死生有命。富貴在天。君子敬而無失。与人恭而有礼。四海之内。皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也。

(訓)司馬牛、憂えて曰く、人には皆な兄弟ありて、我れに独り亡し。子夏曰く、商、これを聞く。死生、命あり。富貴は天にあり、と。君子、敬(つつし)んで失なく、人に与(むか)い恭にして礼あらば、四海のうち、皆な兄弟なり。君子、何ぞ兄弟なきを患えんや。

(新)司馬牛がふさぎこんでいる。曰く、人には、皆な兄弟があるのに、私にだけそれがない。子夏曰く、私は聞いたことがある。生まれたり死んだりするのは、宿命で定っていることで、それは財産や地位が天から授かるのと同様である、と。もし貴君が慎しみ深くして欠点をなくすように努め、人に向って謙虚で礼儀を守れば、四海のうち、世界中の人間は皆な兄弟だ。貴君は何も兄弟がないと慨くには当らぬことだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 人類、「皆な兄弟」でおなじみの子夏の言葉。

 この章の解釈で最初に重要になるのは、もちろん、司馬牛が「兄弟がいない」と哀しんだ部分です。春秋左氏伝より。まず経文。

哀公十四年(481.B.C.)

7 宋ノ向魋(しょうたい)、曹ニ入リテ以テ叛ス。

8 莒子狂、卒(しゅっ)ス。

9 六月、宋ノ向魋、曹ヨリ衛ニ出奔ス。宋ノ向巣(しょうそう)、来奔ス。

小倉芳彦『春秋左氏伝』下 岩波文庫

 宋ノ向魋とは、哀公三年に宋に来た孔子を襲ったことでおなじみの桓魋(かんたい)です。向魋の兄が向巣。

 それでは、伝文を見ましょう。

哀公十四年(481.B.C.) 7

7 宋の桓魋(向魋)への寵愛が(行き過ぎて、逆に)景公を脅すまでになったので、公は母親に頼んで、桓魋を突如饗応に招き、その席でこれを討とうと考えた。それを実行せぬうちに、魋の方が先に計画を進め、(自分の邦邑の)案と(公邑の)薄(毫)とを交換したいと請うたが、公は「それはだめだ。薄は宋の祖廟のある邑(まち)だから」と言って、代わりに七邑を増加した。魋は(お礼に)公を饗応したいと請い、午(ひる)を約束の時間として、自家の武装を総動員して出かけた。これを知った公は、皇野(子仲)に、

 「余(わし)は魋を育ててやったのに、かえって余に禍を加えようとしている。すぐに助けてくれぬか」

と言うと、司馬子仲(皇野)は、

 「臣下にして不順なのは、神の悪(にく)むところ。人間はもとよりです。なんで仰せに背けましょう。(だが)左師を味方につけないと駄目です。君命をもって呼んで下さい」

小倉芳彦『春秋左氏伝』下 岩波文庫

 この左師が向巣。呼び出された向巣は、

哀公十四年(481.B.C.) 7

公が「子(あなた)に禍を及ぼすことがもしあれば、上に天あり、下に先君あり、(これを照覧し罰したまへ)」

と誓うと、向巣は、

 「魋の不敬は宋の禍なれば、恭んで仰せに従います」

と答えた。司馬(皇野)は瑞(発兵の符節)を公に請い、それによって部下に桓氏(向魋)攻撃を命じた。長老や旧臣は反対したが、新しい家臣は「吾が君の命令通りにする」と、攻撃にかかった。

 (向魋の弟)子頎(しき)は馬を馳せて状況を桓司馬(向魋)に報告した。司馬(魋)は公宮に攻め入ろうとしたが、(弟の)子車が引き止めた。

 「国君に奉仕できずに、かえってこれを攻めたりすれば、民は味方になってくれず、殺されに行くだけです」

 向魋はついで曹に入って(宋から)離叛した。

小倉芳彦『春秋左氏伝』下 岩波文庫

 桓氏の兄弟同士が、景公派と叛乱軍とに分かれてしまう結果となりました。というか長兄(たぶん)である向巣だけが公につきしたがい、向魋の弟たち(子頎、子車)は曹で叛します。


 いよいよ左師向巣による向魋討伐がはじまりますが……

哀公十四年(481.B.C.) 9

 六月、左師向巣を派して曹を攻めさせたところ、(国内の)大夫を人質にとって曹に入ろうとした。(しかし)それは失敗し、向巣も曹に入って、(曹の子弟を)人質に取った。すると向魋は、

 「それはいけない。国君に奉仕できなかった上に、さらに民から悪まれては、どうしようもなくなる」

と、人質を釈放した。

小倉芳彦『春秋左氏伝』下 岩波文庫

 いきなり宋公を裏切るお兄ちゃん。悪辣非道の下克上野郎である弟桓魋から(さらに弟の子車の受け売りとはいえ)人の道を説かれる始末です。

 桓魋は人質を解放しましたが、しかしすでに君主に離叛という大逆無道の戦いをしているというのに、こんな些末事は、むしろ「宋襄の仁」なのではないでしょうか。兄の決定を弟が無視して、指揮系統が乱れれば士気は下がります。

哀公十四年(481.B.C.) 9

すると曹の民は(向氏兄弟から)離叛し、向魋は衛に逃げ、向巣は魯に来奔した。宋公は向巣を引き止めて、

「寡人(わたくし)は子と誓約している。向氏の祀を絶やすわけには行かぬ」

と言ったが、向巣はことわった。

小倉芳彦『春秋左氏伝』下 岩波文庫

 向巣が曹で寝返ったのは、自分の弟を責めるという罪の大きさを感じたからであり、桓魋の謀叛は桓(向)氏一族の罪であると考えたためでした。こうして宋の名家(たぶん)であった向氏は国外へと離散することになってしまったのです。


 長かった。さて、真打ち登場。

哀公十四年(481.B.C.) 9

 (向魋の弟)司馬牛は自分の邦邑と玉圭とを返納して、斉に行った。向魋が衛の地を通ると、公文氏がこれを攻撃して、夏后氏の名玉を要求したが、別の玉を渡して斉に逃げた。陳成子(陳恒)が魋を次卿に任命すると、司馬牛は(斉からもらった)邑をまた返納して呉に行ったが、呉の人に悪まれ宋に戻った。趙簡子(趙鞅)に招かれ、陳成子にも招かれたが、魯の外郭の門外で亡くなり、阬(こう)氏がこれを丘輿(きゅうよ)に埋葬した。

小倉芳彦『春秋左氏伝』下 岩波文庫

 突然の司馬牛登場。桓氏の一人として宋に邦邑を封建されていたこと、兄弟たちとは一線を画して関わり合いになることを拒んでいたことが分かります。

仁斎は、「左伝」の司馬牛と、ここの司馬牛とは別人であり、「我れ独り亡し」とは、実際に兄弟がなかったのだとする。仁斎の説をたすけるならば、「史記」の「弟子列伝」には、桓魋の弟であるとも、何ともいっていない。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

司馬牛には、実際に兄弟がいなかったとして、説いたのであるが、じつは仁斎の「古義」のみがその説であり、他の説はみな、彼には、実は兄があったとする。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

悪人桓魋の弟で、司馬牛はあって、そのため、あんな悪人の兄をしかもたない私は、兄弟がないにひとしい、となげいたとするのが、古注以来の説である。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 この章句の眼目は子夏の言葉であり、それからすると司馬牛の気持ちはどちらでもいいようなきもします。が、子夏は当然この司馬牛の事情を知ってこうした慰撫の言葉をかけているのでしょう。死生だ富貴だという大げさな言葉遣いは、現実の政争や一族の趨勢に悩む司馬牛に「そんな悩みは、天上天下四海の内を見わたせば、ちっぽけなんだよ」といっているようにも受けとれます。


 たとえば、司馬牛がこのセリフを吐いたタイミングも分かりませんしね。下村湖人『論語物語』では、司馬牛が孔子一行の旅に随行していて、桓魋に襲われ宋から脱出した直後のこととします。その時であれば、司馬牛の悩みは、「僕には、人並みの、愛すべき兄弟がいない」となることでしょう。もしも桓魋が叛乱真っ最中であったとするなら、もうその罪で殺されてしまうであろう事を予測して「僕には、兄弟とよべる人がもういない」と悩むはず。まあ大変。


 子夏の言葉は、「商、これを聞く」とありますから、孔子の言葉の伝聞、もしくは古語(詩やことわざのたぐい)となりましょうが、君子は世界のどこであっても同じように人びとに親しむ、ということでしょうね。それが、ナショナリズムを煽ることで特定のメンバーだけの人気者になる「徳の賊」とは違うところです。