蜀犬 日に吠ゆ

2010-01-04

[][]河田清史『ラーマーヤナ』下 レグルス文庫 第三文明社(その5)終了 22:34 はてなブックマーク - 河田清史『ラーマーヤナ』下 レグルス文庫 第三文明社(その5)終了 - 蜀犬 日に吠ゆ

 つい昨日は怒りのあまりに途中で放り投げてしまいました。

ラーマーヤナ―インド古典物語 (下) (レグルス文庫 (2))

ラーマーヤナ―インド古典物語 (下) (レグルス文庫 (2))

  • 六の巻
    • 凱旋
      • ラーマとシータはランカを離れて帰国する。
      • ラーマは、弟バーラタが自分の帰還を願っているか、王位簒奪を企てていないかと疑ってハニュマーンを偵察に出す。
        • こういうところ、ラーマって性格悪いですよね。勝って兜の緒を締めよ、といいますか、浮かれて帰国せず慎重に事をとり行うのは知恵ある故なのでしょうけれども、そういう策略を弄するのはねえ。
      • バーラタはもちろんラーマの帰りを待ち続け、ラーマの靴をのせた王座を守りつづけていました。ラーマは帰国し、ハニュマーンをはじめとする猿たちはキシキンダーへ帰っていきました。
      • その後、ラーマの治世は千年つづき、その時代にバールミキが『ラーマーヤナ』をつくり、吟誦詩人たちによってインドに伝わっていきました。

 後半になって行くにつれて納得いかなくなる。

これまでの感想

これまでの、下巻の感想

下巻その1

下巻その2

下巻その3

下巻その4

上巻の感想

上巻その1

上巻その2

上巻その3

上巻その4





[][][]蛇の章を読む(その3) 19:40 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その3) - 蜀犬 日に吠ゆ

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。


第一 蛇の章

一、蛇

八 走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく、すべてこの妄想*1をのり超えた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。


九 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。


一〇 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って貪りを離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。


一一 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って愛欲を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。


一二 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って憎悪を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。


一三 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って迷妄を離れた修行者は*2、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 「走っても疾(はや)過ぎることなく、また遅れることもなく、すべてこの妄想をのり超えた修行者」とはどういうことでしょう。註によれば、「努力精励しすぎることもなく、また怠けることもなくの意。つまり中道の思想」云々。 それでもなお分かりにくいですが、心がつねに平静にある、ということでしょうか。そうして澄み切った目で眺めれば、妄想や雑念が消え去り、一切ものは妄執であるとわかる、と。一切のものが虚妄であると知れば、「貪り」「愛欲」「憎悪」「迷妄」を離れることができるというわけですか。

 理屈は分かるのですが、まずその、心の平静がねえ。むつかしいですなあ。



[][][][]顔淵第十二を読む(その6) 20:16 はてなブックマーク - 顔淵第十二を読む(その6) - 蜀犬 日に吠ゆ

浸潤の譖り、膚受の愬え行われざる

 顔淵第十二(279~302)

284 子張問明。子曰。浸潤之譖。膚受之愬。不行焉。可謂明也。已矣。浸潤之譖。膚受之愬。不行焉。可謂遠也已矣。

(訓)子張、明を問う。子曰く、浸潤(しんじゅん)の譖(そし)り、膚受(ふじゅ)の愬(うった)え行われざるは、明と謂うべきのみ。浸潤の譖り、膚受の愬え行われざるは、遠と謂うべきのみ。

(新)子張が明察な人とはどんな人かと尋ねた。子曰く、繰返し繰返し行われる讒言も、膚で感じられやすい誹謗も、少しも効き目がなかったら、それは目の明るい人だと言うべきだ。根虫の喰うような讒言も、膚ざわりのよい陰言もつけこむ隙が見出せなかったら、それは遠くまで目の利く人と言いかえてもよい。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 感情に支配されないからこそ知恵が働かせられる、ということ。

 宮崎先生の解釈は「浸潤」「膚受」のあたり少し意訳気味ですので、金谷先生のところから

先生はいわれた、「しみこむような(じわじわとくる)悪口や、肌身にうけるような(痛切な)うったえ(には人は動かされやすいものだが、よく判断できてそれらが)通用しないようなら、聡明といってよいだろう。」

金谷治『論語』岩波文庫

 吉川先生が各説を紹介していますので、そちらも。

「浸潤の譖」とは、水がものを、人の気づかない間に、だんだんとひたしてゆくように、日数をかけて君主の心にくいいる巧妙な讒言ということに、諸説が一致する。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

「膚受の愬」、その「愬(そ)」の字は、訴と同じであり、ここでは讒言のうったえの意味であるが、「膚受」については説が分かれる。薄い皮膚のように浅薄な言葉というのが、古注に引く馬融の説。皮膚にしみ込むほこりのように、知らぬ間にしみ込む讒言というのが、皇侃や邢昺の説。皮膚に傷を受けたように深刻ぶった小人ばらのうったえというのが、新注の朱子の説。私は第二説に従う。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 人の上という立場に立つと、どうしても嫌なことも見聞しなければならなくなります。それがぱっと見て根拠のない誹謗中傷である時には、排除することが簡単ですが、それと気づかれないようなかたちでじわじわと心を染めてゆくようなたぐいの讒言に、惑わされないのが「明」であるということですね。

 子張のような高遠なことを好む者は、明の遠きに及ぶことを求めて反って卑近な人情を察することができないものであるから、子張がただ明を問うたのに対して、孔子は更に遠を附け加え、「浸潤之譖、膚受之愬云云」を二度繰り返して、丁寧に説明したのである。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 ええとつまり、一回目だけでは、子張に「そういう卑近なことではなくて私が聞きたいのは本質の部分なんですよ」と思われ、伝わらないかもしれないので、「まわりの人の言葉に悪影響を受けない、これは身近なことから深遠なことにまであてはまる、知恵なのだ」と念を押した、ということでしょうかね。

*1:訳者註:原語はPapancaであり、この語は漢訳仏典ではよく「戯論」と訳される。ヴェーダーンタ哲学では世界のひろがりの意味。しかし原始仏教経典では「妄想」の意味か。

*2:訳者註:以上の四つの詩句においては、それぞれ貪り(lobha)、憎悪(dosa =Skrt.dvesa)、迷妄(moba 愚癡)という三つの煩悩は、人間にとって根本的なものであるから、古来の仏教の学問では「貪・瞋・癡」という。ragaは愛し、むさぼり、執著すること、dosa は(1)嫌悪し、次に(2)憎悪し、さらに(3)打ちのめし害すること、moha とは、真実の姿を知らず、迷ってぼうとしていること。