蜀犬 日に吠ゆ

2010-01-04

[][][][]顔淵第十二を読む(その6) 20:16 はてなブックマーク - 顔淵第十二を読む(その6) - 蜀犬 日に吠ゆ

浸潤の譖り、膚受の愬え行われざる

 顔淵第十二(279~302)

284 子張問明。子曰。浸潤之譖。膚受之愬。不行焉。可謂明也。已矣。浸潤之譖。膚受之愬。不行焉。可謂遠也已矣。

(訓)子張、明を問う。子曰く、浸潤(しんじゅん)の譖(そし)り、膚受(ふじゅ)の愬(うった)え行われざるは、明と謂うべきのみ。浸潤の譖り、膚受の愬え行われざるは、遠と謂うべきのみ。

(新)子張が明察な人とはどんな人かと尋ねた。子曰く、繰返し繰返し行われる讒言も、膚で感じられやすい誹謗も、少しも効き目がなかったら、それは目の明るい人だと言うべきだ。根虫の喰うような讒言も、膚ざわりのよい陰言もつけこむ隙が見出せなかったら、それは遠くまで目の利く人と言いかえてもよい。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 感情に支配されないからこそ知恵が働かせられる、ということ。

 宮崎先生の解釈は「浸潤」「膚受」のあたり少し意訳気味ですので、金谷先生のところから

先生はいわれた、「しみこむような(じわじわとくる)悪口や、肌身にうけるような(痛切な)うったえ(には人は動かされやすいものだが、よく判断できてそれらが)通用しないようなら、聡明といってよいだろう。」

金谷治『論語』岩波文庫

 吉川先生が各説を紹介していますので、そちらも。

「浸潤の譖」とは、水がものを、人の気づかない間に、だんだんとひたしてゆくように、日数をかけて君主の心にくいいる巧妙な讒言ということに、諸説が一致する。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

「膚受の愬」、その「愬(そ)」の字は、訴と同じであり、ここでは讒言のうったえの意味であるが、「膚受」については説が分かれる。薄い皮膚のように浅薄な言葉というのが、古注に引く馬融の説。皮膚にしみ込むほこりのように、知らぬ間にしみ込む讒言というのが、皇侃や邢昺の説。皮膚に傷を受けたように深刻ぶった小人ばらのうったえというのが、新注の朱子の説。私は第二説に従う。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 人の上という立場に立つと、どうしても嫌なことも見聞しなければならなくなります。それがぱっと見て根拠のない誹謗中傷である時には、排除することが簡単ですが、それと気づかれないようなかたちでじわじわと心を染めてゆくようなたぐいの讒言に、惑わされないのが「明」であるということですね。

 子張のような高遠なことを好む者は、明の遠きに及ぶことを求めて反って卑近な人情を察することができないものであるから、子張がただ明を問うたのに対して、孔子は更に遠を附け加え、「浸潤之譖、膚受之愬云云」を二度繰り返して、丁寧に説明したのである。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 ええとつまり、一回目だけでは、子張に「そういう卑近なことではなくて私が聞きたいのは本質の部分なんですよ」と思われ、伝わらないかもしれないので、「まわりの人の言葉に悪影響を受けない、これは身近なことから深遠なことにまであてはまる、知恵なのだ」と念を押した、ということでしょうかね。