2010-01-10
■ [書留][仏教][スッタニパータ]蛇の章を読む(その6) 
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
第一 蛇の章
二、ダニヤ
二六 牛飼いダニヤがいった、
「未だ馴らされていない牛もいるし、乳を飲む仔牛もいる。孕んだ牝牛もいるし、交尾を欲する牝牛もいる。牝牛どもの主である牡牛もいる。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
二七 師は答えた、
「未だ馴らされていない牛もいないし、乳を飲む仔牛もいない。孕んだ牝牛もいないし、交尾を欲する牝牛もいない。牝牛どもの主である牡牛もここにはいない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
二八 牛飼いダニヤがいった、
「牛を繋ぐ杭は、しっかり打ちこまれていて揺がない。ムンジャ草でつくった新しい縄はよくなわれている。仔牛もこれを断つことができないであろう。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
二九 師は答えた、
「牡牛のように結縛(むすびいましめ)を断ち、くさい臭いのする蔓草を象のように踏みにじり、わたくしはもはや母胎に入ることはないであろう。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
中村元『ブッダのことば』岩波文庫
財産を持っているとか持っていないとか、そういうことにとらわれない。財産を持っていることにとらわれれば、それを失うことへの不安に苛まれなければなりません。師ブッダはそうした執著を捨て去っているのです。
■ [書留][儒教][顔淵第十二][宮崎市定]顔淵第十二を読む(その10) 
徳を崇び惑いを弁ずる
顔淵第十二(279~302)
288 子張問崇徳弁惑。子曰。主忠信徒義。崇徳也。愛之欲其生。悪之欲其死。既欲其生。又欲其死。是惑也。
誠不以富。亦祇以異。(訓)子張、徳を崇び惑いを弁ずるを問う。子曰く、忠信を主とし義に徒(うつ)るは徳を崇ぶなり。これを愛しては其の生を欲し、これを悪んでは其の死を欲す。既にその生を欲し、又た其の死を欲す。是れ惑いなり。(以下八字錯出)
(新)子張が徳を崇び、惑いを脱却する、という古語の意味を尋ねた。子曰く、誠実を旨とし、正義に共鳴するのが、徳を崇ぶことになる。その人を愛するからと言って永遠に生きることを欲し、嫌いだからと言ってその死ぬことを欲するのはよくあるが、その生きることを欲しながら、かえって死ぬことを欲したと同じ結果におちいったりする。それが惑いだ。
宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫
この条は後の299と内容が甚だ似通っている。崇徳弁惑は何かの古典に出た語であろう。最後の二句、誠不以富。亦祇以異。は432の初に置かれるはずのが誤って此処に入ったと認められる。
宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫
ほんまかいな、とおもいましたが、吉川先生もそうした説を紹介しています。
最後の、「誠に以って富まず、亦た祇(まさ)に以って異なり」、は、「詩経」の「小雅」の詩、「我行其野」の二句であるが、朱子の新注に、程子の説を引いて、この二句はここにあるべきでなく、のちの季氏第十六の、「斉の景公」云云の条にあるべきなのが、ここにまぎれ込んだとする。またその理由として、ここも次が斉の景公についての章であることから、錯乱したといい、仁斎のみならず、新注ぎらいの徂徠も、それに従っている。
吉川幸次郎『論語』下 朝日選書
さて、子張が「崇徳」と「弁惑」について質問しました、と。夫子答えるときに、子張には「問明」のときもそうであるように身近な努力目標で説明します。子張はすこし見栄っ張り(辟)なところがありますからね。
さておいて、夫子之答えは、まず「崇徳」すなわちみずからの道徳心を高めるためには「忠信」すなわち「忠」素直であること、「信」正直であることが大切で、また「義に徒る」、人の話をよく聞いて正しいものに近づけることが大切であると説きます。これは、孔子の今までの言葉とも重なり、よく分かります。
一方、「弁惑」すなわち惑いを見極めるほうは、よく分かりません。「生きることを欲しながら、かえって死ぬことを欲したと同じ結果におちいったりする」とはどういうことでしょう。
ある人を愛すると、その人が長生きできるようにと願う。ところが、その人を憎むとなれば、早く死ねばいいのにと願う。前には生きてと、今は死ねと、ころころ変わる。これが惑いというものだ。
加地伸行『論語』講談社学術文庫
これだと意味は分かります。その時その時の感情で判断力が狂ってしまうことを避けよ、というのでしょう。けれども、「惑い」というほど大げさなものでしょうか。「惟だ仁者のみ能く人を好み、能く人を憎む」の考え方からいえば、その時その時、きっちりと信念に基づいて人を判断できるのは、むしろいいことのような気もします。もちろん夫子も他者の死を願うような憎みかたがいいとはいわないでしょうけれども。
吉川先生の解釈では、
文法的な問題として、既……又……は、一種のイディオムであって、おおむねの場合、すでに第一のことが確定して存在する上に、また第二のことが存在する。つまりnot only ……but also ……、のみならず……また、と訳されるが、ここは、人間の生存を希望するという条件があるにもかかわらず、一方ではその死亡を希望する、と訳すべき場合であり、日本語では、「かかわらず」になる。徂徠の「論語徴」では、「詩経」の詩人が、愛する人に対しては、「君子よ万年なれ」とい、にくむ人に対しては、「豺と虎に投げ畀(あた)えん」というのが、それであるとする。
吉川幸次郎『論語』下 朝日選書
となり、人間の生存と死亡を同時に考えるような状態は、既に惑いなのであるとします。これもわかったようなわからないような感じですね。
宮崎先生の「生きることを欲しながら、かえって死ぬことを欲したと同じ結果におちいったりする」は、ほかの先生の説を読みながら、少し分かってきました。つまり、「心ではある人の生存を願い、よかれと思って行うことが、かえってその人を駄目にし、殺してしまう。」、意志と行動がちぐはぐであることが、「惑い」なのだということでしょうか。これが一番ありそうな解釈かも知れませんね。