蜀犬 日に吠ゆ

2010-01-13

[][][]蛇の章を読む(その8) 20:45 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その8) - 蜀犬 日に吠ゆ

犀の角のようにただ独り歩め。

第一 蛇の章

三、犀の角

三五 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きものののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況わんや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。

三六 交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

三七 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあうことを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

三八 子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 すべてを捨てる覚悟がなければ仏道には入れません。しかし、「犀の角」のたとえ、師ブッダはこれ一本で通せないと不安になったのか早くも四句目にして筍のたとえをたたみかけています。

 しかし、「あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きものののいずれをも悩ますことなく」などということが本当にできるのでしょうか。ブッダになれば、ふたたび地上に現れることがないわけですからなにものをも傷つけたりはしないでしょうが、居士には不可能な領域のように思えます。


 註によれば

三、犀の角

 犀の角――原文には khaggavisana とあるが、原語についてみると、khagga(=Skrt. khadga)は、一、刀、二、犀(rhinoceros)という意味で、visana は角であるから、両者を合すると、「犀の角」となる。「犀の角」の譬喩によって「独り歩む修行者」「独り覚った人」(pacekabuddha)の心境、生活をのべているのである。

 「犀の角のごとく」というのは、犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずらわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮すようにせよ、の意である。

 本初のこの箇所に述べられていることは、後代の仏教教学によると、「麒麟の角に喩えられる生活をしている独覚」に相当する。

 仏教では、後世になると、三つの実践法(三乗)があるという。「声聞(しょうもん)」(釈尊の教えを聞いて忠実に実践する人)。「独覚」(山にこもって一人で覚りを開く人)。「菩薩」(人々を救おうという誓願を起こして実践する人)。

 そのうちで、「独覚」には二種類ある。一、部行独覚(仲間を組んで修行する独覚。『倶舎論』一二巻八枚裏。「部行」(vargacarin)とは、仲間をつくって修行することである)。二、麟角独覚(常にひとりでいて伴侶のいない独覚。麟が一つの角のみをもっていることに譬えていう)。「麟角喩」とは「麟の角(一本しかない)に喩えられる」の意。この場合麟とは犀のことを言ったのだと考えられる(khadga-visna-kalpa)。角が一本しかないからである。

 さて、犀(khadga)のことを、なぜ漢訳者は「麒麟」と訳したのか? 想像が許されるならば、シナ人には犀はあまり知られておらず、むしろ麒麟のほうがなじみが多かったからではなかろうか。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 ということだそうです。大乗仏教は大乗でたいへんですね。(縁覚は声聞のグループに入るのでしょうかね)


[][][][]顔淵第十二を読む(その12) 20:00 はてなブックマーク - 顔淵第十二を読む(その12) - 蜀犬 日に吠ゆ

博学於文

 顔淵第十二(279~302)

293 子曰。博学於文。約之以礼。亦可以弗畔矣夫。

(訓)子曰く、博く文を学び、これを約するに礼を以てすれば、亦た以て畔(そむ)かざるべし。

(新)144とほとんど同文である。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 顔淵も、子罕第九で喟然として言っていました。


君子は人の美を成し

 顔淵第十二(279~302)

294 子曰。君子成人之美。不成人之悪。小人反是。

(訓)子曰く、君子は人の美を成し、人の悪を成さず。小人は是に反す。

(新)子曰く、諸君は他人の長所を長所として尊敬し、他人の短所を短所として同情して欲しい。これに反したことはしてもらいたくない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 「論語」の言葉のうち、私の最も好むものの一つである。

 「成」の字は、つねに完成の意味である。君子は他人の美事善事を援助し完成するが、他人の悪事は、援助し完成しない。小人はその逆であって、人の悪事の尻押しをし、人の美事を妨げる。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 その善し悪しを見わけるのも、もちろん君子に求められる能力ということになるのでしょう。