蜀犬 日に吠ゆ

2010-01-15

[][][]蛇の章を読む(その10) 22:50 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その10) - 蜀犬 日に吠ゆ


犀の角のようにただ独り歩め

第一 蛇の章

三、犀の角

四五 葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを捨て去って、在家の束縛を断ち切って、健(たけ)き人はただ独り歩め。

四六 しかしもしも汝が、(賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者)を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。

四七 われらは実に朋友を得る幸せを讃(ほ)め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過(つみとが)のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 註

 インド思想は西洋の思想や他の東洋諸国の思想に比べて若干の著しい特徴を示しているが、その一つは内向的・内省的であるということであろう。ひとり沈思して自己を反省し、人間主体の深奥に入り込み、直観的に絶対の主体を把捉しようと努める。そこにおいては当然、対象論理とは異なった論理が開かれることになる。そうしてこのような思惟方法は、ややもすれば人間の社会性に関する自覚を稀薄ならしめ、人間はむしろ孤独を楽しむに至る。この思想的特徴の現れ出た理由についてはいろいろ考えねばならぬが、ともかくインドの風土に即した生活から解明されるべきであろう。

 ギリシア人の伝えるところによると、すでに最古代において、インドの農業生産は、さほど労働力を必要とすることなしに、極めて安易に行われた。夏季に河水が氾濫すれば、その程度はちょうど農作物の播種・成長に適当であり、特別の灌漑設備をも、播種後の移植をも必要としなかった。収穫も一年に二度可能であった。加うるに、適度の氾濫は、土地を肥沃ならしめ、また酷熱の気候は、農作物の成長を迅速ならしめる。

 インドのこのような風土においては、農業生産のために人々が労働の共同を行う必要が乏しい。またインドにおいては、衣服と住居に関しても、他の諸民族のように積極的に外的自然にはたらきかけて、努力する必要が少い。しからば、このような社会生活においては、各個人の生活の、他人への依存度が少いわけである。そこでは各個人の生活が孤立的となる傾向がある。インド人は孤独を楽しむ。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 なので、すべてを捨てて孤独に生きることが称讃される、のでしょうか。

 しかし、キリスト教修道士やイスラムのスーフィーなどの文明と比較して、苛酷な自然のなかでもやはり、求道者は孤独なのではないでしょうか。

 いけませんねえ。まだ師ブッダの魔法が私の心に効いてきません。疑念というか妄念がすぐにわき出してしまいます。


[][][][]顔淵第十二を読む(その1422:32 はてなブックマーク - 顔淵第十二を読む(その14) - 蜀犬 日に吠ゆ

士は何如にして斯にこれを達と謂うべきか

 顔淵第十二(279~302)

298 子張問。士何如斯可謂之達矣。子曰。何哉爾所謂達者。子張対曰。在邦必聞。在家必聞。子曰。是聞也。非達也。夫達也者。質直而好義。察言而観色。慮以下人。在邦必達。在家必達。夫聞也者。色取仁而行違。居之不疑。在邦必聞。在家必聞。

(訓)子張、問う。士は何如(いか)にして斯にこれを達と謂うべきか。子曰く、何ぞや、爾の所謂る達とは。子張対えて曰く、邦にありても必ず聞こえ、家にありても必ず聞こゆ。子曰く、是れ聞こゆるなり。達にあらざるなり。夫れ達なるものは、質直にして義を好み、言を察して色を観る。慮(はか)りありて以て人に下る。邦にありても必ず達し、家にありても必ず達す。夫れ聞こゆるとは、色は仁を取りて行いは違い、これに居りて疑わず。邦にありても必ず聞こえ、家にありても必ず聞こゆ。

(新)子張が尋ねた。学徒たる者はどの程度に修養したらこれをずばぬけた人、達人といえますか。子曰く、何かね、君の言うずばぬけた、とは。子張対えて曰く、邦に用いられれば用いられたで名が知れ渡り、家に居れば居ったで名の知れわたる人のことです。子曰く、それなら名が売れると言うべきだ。ずばぬけたのとは違う。本当にずばぬけた人なら、実直で正義を愛し、人の言葉は裏まで読み、人の顔色で心の奥底まで見抜く。しかも思慮深くて人に先を譲るものだ。そのようなら国に用いられればずばぬけた成績をあげ、用いられなくて家の居ればずばぬけた個人生活を送ってみせる。これに反して名を売る方は、表面は仁を装おいながら実行は全く逆で、しかもそれを当然の行為だと信じて疑いをもたぬ。そのようならなるほど、国に用いられれば用いられたで名が知れ渡り、家に居れば居ったで名が知れ渡るものなのだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 「ずばぬけ個人生活」ってどういうものなのか興味が湧きます。

 「師也辟」でおなじみの見栄っ張り先生、子張が「達人になる方法」を教えて貰いに来ました。

 夫子はゆっくり聞きかえします。「達人になりたいというが、おまいさん、いったい達人とはどんな人のことだと思っているのじゃ」そして子張の見栄っ張りがひとしきり非難されてしまうわけですね。

 ここで夫子が「達」を定義するのですが、

達というのは、知られようと求めるのではない。心が質朴正直で行うところは義に合することを好み、人に接するときは人の言語を察し人の顔色を観て己の是非得失を知り、又熟慮して事を処し、謙遜して人に下り、自ら誇ることなく、このように自ら徳を修めて、人に知られることを求めないけれども、徳が己に備わって人がこれを信じ、邦に在れば誠が邦に通じ、家に在れば家に通じ、行うところに自ら障礙(しょうがい)が無いのである。達とはこのようなのをいうのである。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 どうもよくわかりません。(もちろん、ははは宮崎先生の「ずばぬけた」という解釈はさっぱりわからないんですよ。)

 「辞は達するのみ」であれば「伝達」の意味ですから、「聞」は中身が無いのに名声だけが知られる。「達」はその中身こそが知られる、というふうに解釈すると、いちおう意味は通りますが、わざわざ子張が効くほどのこともないような気もします。


 吉川先生は「自由闊達」の達で意味を取ります。

君の希求する「達」、自由なよき社会人であること(略)。君の希求する「達」、それは次のような条件によって生まれる。素朴で正義を好む。人と接する場合には、相手の言葉をよく噛みしめて、相手の感情をよく観察する。またつねに熟慮的であって、人にへりくだる。そうすれば一国にあってもきっと自由であり、家中においてもきっと自由であるだろう。

吉川幸次郎『論語』下 講談社学術文庫

 達人とは自由人ですか。もちろん、自由とは森博嗣先生のおっしゃるタイプのやつであることは論をまたないでしょう。それは吉川先生の「つねに熟慮的であって、人にへりくだる」と対応します。現代人は「自由」と「放埒」の区別もついていない人が多くて辟易します。しかしこういう解釈ですと、また新たな疑問が湧いてしまうので保留。


「史記」の「弟子列伝」の子張の条によれば、この問答は、のちの衛霊公第十五「子張行われんことを問う」とともに、陳蔡の法難の中でかわされたとする。

吉川幸次郎『論語』下 講談社学術文庫

 えー。陳蔡に従いし者、すなわち孔門十哲に子張が入れてもらえないのは可哀想。この点では朱子に同意。



ゲームの達人 <上>

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ゲームの達人 (下)

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