蜀犬 日に吠ゆ

2010-01-15

[][][][]顔淵第十二を読む(その1422:32 はてなブックマーク - 顔淵第十二を読む(その14) - 蜀犬 日に吠ゆ

士は何如にして斯にこれを達と謂うべきか

 顔淵第十二(279~302)

298 子張問。士何如斯可謂之達矣。子曰。何哉爾所謂達者。子張対曰。在邦必聞。在家必聞。子曰。是聞也。非達也。夫達也者。質直而好義。察言而観色。慮以下人。在邦必達。在家必達。夫聞也者。色取仁而行違。居之不疑。在邦必聞。在家必聞。

(訓)子張、問う。士は何如(いか)にして斯にこれを達と謂うべきか。子曰く、何ぞや、爾の所謂る達とは。子張対えて曰く、邦にありても必ず聞こえ、家にありても必ず聞こゆ。子曰く、是れ聞こゆるなり。達にあらざるなり。夫れ達なるものは、質直にして義を好み、言を察して色を観る。慮(はか)りありて以て人に下る。邦にありても必ず達し、家にありても必ず達す。夫れ聞こゆるとは、色は仁を取りて行いは違い、これに居りて疑わず。邦にありても必ず聞こえ、家にありても必ず聞こゆ。

(新)子張が尋ねた。学徒たる者はどの程度に修養したらこれをずばぬけた人、達人といえますか。子曰く、何かね、君の言うずばぬけた、とは。子張対えて曰く、邦に用いられれば用いられたで名が知れ渡り、家に居れば居ったで名の知れわたる人のことです。子曰く、それなら名が売れると言うべきだ。ずばぬけたのとは違う。本当にずばぬけた人なら、実直で正義を愛し、人の言葉は裏まで読み、人の顔色で心の奥底まで見抜く。しかも思慮深くて人に先を譲るものだ。そのようなら国に用いられればずばぬけた成績をあげ、用いられなくて家の居ればずばぬけた個人生活を送ってみせる。これに反して名を売る方は、表面は仁を装おいながら実行は全く逆で、しかもそれを当然の行為だと信じて疑いをもたぬ。そのようならなるほど、国に用いられれば用いられたで名が知れ渡り、家に居れば居ったで名が知れ渡るものなのだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 「ずばぬけ個人生活」ってどういうものなのか興味が湧きます。

 「師也辟」でおなじみの見栄っ張り先生、子張が「達人になる方法」を教えて貰いに来ました。

 夫子はゆっくり聞きかえします。「達人になりたいというが、おまいさん、いったい達人とはどんな人のことだと思っているのじゃ」そして子張の見栄っ張りがひとしきり非難されてしまうわけですね。

 ここで夫子が「達」を定義するのですが、

達というのは、知られようと求めるのではない。心が質朴正直で行うところは義に合することを好み、人に接するときは人の言語を察し人の顔色を観て己の是非得失を知り、又熟慮して事を処し、謙遜して人に下り、自ら誇ることなく、このように自ら徳を修めて、人に知られることを求めないけれども、徳が己に備わって人がこれを信じ、邦に在れば誠が邦に通じ、家に在れば家に通じ、行うところに自ら障礙(しょうがい)が無いのである。達とはこのようなのをいうのである。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 どうもよくわかりません。(もちろん、ははは宮崎先生の「ずばぬけた」という解釈はさっぱりわからないんですよ。)

 「辞は達するのみ」であれば「伝達」の意味ですから、「聞」は中身が無いのに名声だけが知られる。「達」はその中身こそが知られる、というふうに解釈すると、いちおう意味は通りますが、わざわざ子張が効くほどのこともないような気もします。


 吉川先生は「自由闊達」の達で意味を取ります。

君の希求する「達」、自由なよき社会人であること(略)。君の希求する「達」、それは次のような条件によって生まれる。素朴で正義を好む。人と接する場合には、相手の言葉をよく噛みしめて、相手の感情をよく観察する。またつねに熟慮的であって、人にへりくだる。そうすれば一国にあってもきっと自由であり、家中においてもきっと自由であるだろう。

吉川幸次郎『論語』下 講談社学術文庫

 達人とは自由人ですか。もちろん、自由とは森博嗣先生のおっしゃるタイプのやつであることは論をまたないでしょう。それは吉川先生の「つねに熟慮的であって、人にへりくだる」と対応します。現代人は「自由」と「放埒」の区別もついていない人が多くて辟易します。しかしこういう解釈ですと、また新たな疑問が湧いてしまうので保留。


「史記」の「弟子列伝」の子張の条によれば、この問答は、のちの衛霊公第十五「子張行われんことを問う」とともに、陳蔡の法難の中でかわされたとする。

吉川幸次郎『論語』下 講談社学術文庫

 えー。陳蔡に従いし者、すなわち孔門十哲に子張が入れてもらえないのは可哀想。この点では朱子に同意。



ゲームの達人 <上>

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ゲームの達人 (下)

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