蜀犬 日に吠ゆ

2010-01-16

[][][]ワイス、ヒックマン『ドラゴンランス』3 角川つばさ文庫 17:22 はてなブックマーク - ワイス、ヒックマン『ドラゴンランス』3 角川つばさ文庫 - 蜀犬 日に吠ゆ

 「城砦の赤竜」編。

 どうでもいいのですが、パーティの人数が半端無い。「黒竜」編の8人に加え、居酒屋の看板娘からクラスチェンジした女剣士ティカ、ど忘れ魔術師フィズバン、エルフの王子ギルサナス、傭兵剣士エーベン、エルフの王女ローラナ、5人も増えた。すなわち総勢13人ですよ! 私がDMなら破綻する。実際に、フリントやリヴァーウィンドはほとんど見せ場もないですよ。リヴァーウィンドは最後に主役になりますが。全員に見せ場を作るためには、主人公パーティは4~5人がいいですね。わたしは。

ヒューマの頌歌

 『ヒューマの頌歌』はエルフの吟遊詩人クィヴァレン・ソスの最後の――そして多くの者の認めるところでは、最高の――作品である。しかし、(大変動)後に残されているのは、作品のほんの断片である。伝えられるところでは、この詩を深く読む者には、変化しつつあるこの世界の未来がうかがえるという。

ワイス、ヒックマン『ドラゴンランス3 城砦の赤竜』角川つばさ文庫

ヒューマの頌歌

 村から、草葺きの家の集まる里から、

 墓と畝、畝と墓から、

 幼き狂乱の剣試しを舞い納め、

 限りなく廃れゆく里を発ち、

 沼地の燐のような雄々しさで

 斜に飛ぶ翡翠(かわせみ)をつねに頭上に、

 今ヒューマは薔薇の上を歩む、

 薔薇の平らかな光の中。

 竜(ドラゴン)に騒がされ、ヒューマは地の果てへ向かう。

 あらゆる分別と正気の際へ、荒れ地へ。

 その地でパラダインに反転を命じられ、

 その鳴り響く短剣のトンネルの中、

 ヒューマは汚れない血気と熱望の内に育ち、

 耳を聾する声の鞭により晏然と自虚に至る。


 まさにその時その地で白い雄鹿がヒューマを見つけた。

 創世のころより計画された旅の終わりに、

 森の端をよろめき歩いた挙げ句、

 ヒューマは憑依と飢えのため、

 弓を張り、神々の寛大さと守護に感謝する。

 森また森のその中に、息をのむ沈黙の下、

 眼に映りしはまばゆい鹿の枝角。

 彼は弓をおろし、世界は再び動きだす。

 ヒューマは雄鹿を追った。

 豊かな枝角は淡い光を宿して遠ざかる、

 空に揚がる鳥の爪のように。

 眼前にうずくまる山。いまや変わるものはない。

 三つの月は空でとまり、

 長い夜は影につまずく。


 朝になり、彼らは山裾の木立に着く。

 牡鹿は立ち去り、ヒューマも追わず。

 この旅路の終わりが緑にほかならないのを知るがゆえ。

 眼前の乙女の瞳に宿る緑の約束――。

 ヒューマが乙女に寄りそった日々の聖なるかな。

 彼の愛の言葉を、忘れた歌を運ぶ風の聖なるかな。

 忘我の月は大いなる山上にひざまずく。

 しかし、乙女は身をかわした、沼地の燐のように明るく巧みに、

 名もなく愛らしく、名もないゆえいっそう愛らしく。

 この世界が、まぶしい空気の層が、

 荒れ地自体が、

 心のしげみに比べれば平易で矮小なものであると知り、

 最後の日に、乙女は自分の秘密を語る。


 彼女は女子(おみなご)ではなく、人間でもなく、

 竜の眷族の正統な末裔なり。

 ヒューマにとり、空は月の散財する、そ知らぬ場所となり、

 草の短い命は彼と彼の父祖を嘲笑し、

 とげなす光は滑落する山に逆立つ。

 しかし、名はなくとも彼女は希望を惜しまず差し出す。

 パラダインのみが応えうる希望を。

 彼のたゆまぬ知恵により、彼女が永遠の中から歩み出し、

 その銀の腕の中に、木立の約束は芽生えて栄えるのではないかと。

 その知恵をヒューマは祈り、雄鹿は戻り、

 東へ、荒涼とした原野を、灰の中を、

 消し炭と血の中を、竜の収穫期の中を、

 ヒューマは旅する。銀の竜の夢にあやされて、

 同道の雄鹿を導き手として。


 ついに、最後の港は、

 東のかなた、東の果ての神殿。

 そこで栄光と星々の池の中に、

 パラダインが姿を現わし、

 最も苛酷な選択をヒューマに宣告す。

 心は熱望の揺籃であり、

 われわれは永遠に光をめざして旅をすることができ、

 思いもよらぬものにさえなれるのを、パラダインは知る。

 たとえば、ヒューマの花嫁が貪欲な太陽の中へ歩み入り、

 槍(ランス)の秘密を置き去りに、

 二人で草葺きの里に戻り、

 人の絶えた世界を闇の中に置き、竜と結ぶも可能なら、

 あるいは、ヒューマが竜槍を引き受けて、クリンから

 死と侵略を、そして恋人の緑の小道を掃討するも可能なりき。


 苛酷な運命なり。

 ヒューマは思う、太陽の庇護の下

 いかに荒野が彼の最初の考えを囲い清めたかを。

 今、黒い月は廻り、旋回し、クリンから、

 気と実を吸い寄せる。クリンの物々から、

 木立から、山から、捨てられた里から。

 彼は眠りを望む。すべてを投げうつを望む。

 選ぶ苦痛は耐え難く、

 あたかも切り落とされた手がまだうずくに似たり。

 しかし、彼女はやって来た、泣きながらも晴れやかに。

 夢の中の光景で、彼は世界が崩壊し、

 槍のきらめきの上に復活するを見る。

 彼女の告別の内に崩壊と復活はあった。

 命運の決まった彼の血管を貫いて地平線が破裂する。


 彼は竜槍を手にしたり、伝説を手に。

 蒼白い光がかかげた腕に流れ込み、

 太陽と三つの月は奇跡を待ち受け、

 空に同時に掛かる。

 西方へとヒューマは駆ける、(大司教の塔)へと、

 銀の竜の背に乗って。

 眼下をよぎる荒廃の地では

 竜どもの名をわめきながら死者がただ歩きまわる。

 (塔)の人々は竜どもに包囲攻撃を受け、

 断末魔の絶叫と、飢えた咆哮を浴びながら、

 言語に絶する沈黙を、

 はるかに苛烈な運命を待つ。

 正気が瓦解して虚無におちいり、

 狂気と闇の内に精神が屈服するのではないかと恐れつつ。


 しかし、彼方から喨々とヒューマの角笛の音が流れ来て

 胸壁の上で躍動する。

 ソラムニアじゅうが顔をあげ、東の空を見る。

 竜どもは、大異変が起こりきと、

 上空高く舞い集う。

 その翼の嵐の中から、竜どもの混沌の中から、

 虚無の中心から、(夜の母)が

 空虚の色をまとい

 東の方へ、太陽の凝視の下へ舞い降りる。

 空は銀と暗黒とにくずれ落ちれる。

 地面にはヒューマが横たわり、

 かたわらには乙女が、銀の肌を裂かれ、

 緑の約束を天性の瞳から解き放つ。

 乙女がその名をささやくと同時に、

 (暗黒の女王)はヒューマの上空で急降下にはいる。


 (夜の母)が降臨する。

 胸壁の高みから、人々は影が

 降下する無色の翼の上で沸騰するを見た。

 わらといぐさの小屋。荒野の中心。

 失われた銀の光は凄絶な深紅となって飛散し、

 やがて、影の中央から深淵が現れる。

 その中では闇自体が明滅し、

 あらゆる空気、あらゆる光、あらゆる影を拒む。

 ヒューマは虚無の中に槍を突き立て、

 甘美な死の中へ、とこしえの陽光の中へと倒れる。

 槍を通して、貴い力と、

 命と正気の果てまでもゆく兄弟愛を通して、

 ヒューマは竜どもを虚無の中核へ追放する。

 そして数多の国々には均衡と楽の音が花咲いた。


 新しい自由に感動し、光と色彩に感動し、

 清らかな風の奏でる祝福の下、

 騎士たちはヒュ-マと竜を

 山すその木立へと運び、

 やがて巡礼と表敬のために木立へ戻った時、

 槍も、鎧も、(竜殺し(ドラゴンベイン))その人も、

 日輪の眸の下から消え失せたり。

 しかし、赤と銀の満月が丘を照らす夜には、

 男と乙女の姿が月光を浴び、

 鋼と銀を、銀と鋼をほのかに光らせながら、

 村の上、草葺きの稚(わか)い里に見えるという。

ワイス、ヒックマン『ドラゴンランス3 城砦の赤竜』角川つばさ文庫

 「ドラゴンの頌歌」のほうが良かった。それはさておき。赤竜編の感想を書きます(あとで)。

これまでの感想

廃都の黒竜 上 (その5)

廃都の黒竜 下(その2)





[][][]蛇の章を読む(その11) 21:08 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その11) - 蜀犬 日に吠ゆ


犀の角のようにただ独り歩め

第一 蛇の章

三、犀の角

四八 金の細工人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金の腕輪を、一つの腕にはめれば、ぶつかり合う。それを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

四九 このように二人でいるならば、われに饒舌といさかいとが起るであろう。未来にこの恐れのあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。

五〇 実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を攪乱する。欲望の対象にはこの患いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

五一 これはわたくしにとって災害であり、腫物であり、病であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

五二 寒さと暑さと、飢えと渇(かつ)えと、風と太陽の熱と、虻と蛇と、――これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。

五三 肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。

五四 集会を楽しむ人には、暫時の解脱にいたるべきことわりもない。太陽の末裔(ブッダ)のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め。

五五 相争う哲学的見解を越え、(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。

五六 貪ることなく、詐ることなく、渇望することなく、(見せかけで)覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 四八。腕輪がぶつかり合うのは、音を立てることで、「朋友との切磋琢磨」のことなのでしょうか。とてもそうは読めませんが註。

 以前には朋友、仲間をつくるな、といい、ここでは朋友(sahaya)を得る幸せをたたえている。個々の立言としては矛盾しているが、人間にはこの両面があるから、この両面を適当に生かすべきであるというのであろう。ともかく友を得ようと得まいと平静な気持をもっていなければならない。「真実のバラモンは人の来るのを喜ぶことなく、去るを悲しむことなし」というのが理想とされていた。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 五四。師ブッダ、太陽の末裔ですって。大きく出ましたね。註を読んでもそれがなぜブッダのことであるか不詳。


[][][][]顔淵第十二を読む(その15) 20:06 はてなブックマーク - 顔淵第十二を読む(その15) - 蜀犬 日に吠ゆ

敢て得を崇び、慝(とく)を脩め、惑いを弁ずる

 顔淵第十二(279~302)

299 樊遅従遊於舞雩之下。曰。敢問崇徳。脩慝。弁惑。子曰。善哉問。先事後得。非崇徳与。攻其悪。無攻人之悪。非脩慝与。一朝之忿。忘其身以及其親。非惑与。

(訓)樊遅、従って舞雩(ぶう)の下に遊ぶ。曰く、敢て得を崇び、慝(とく)を脩め、惑いを弁ずる、を問う。子曰く、善いかな、問いや。事を先にして得るを後にす。徳を崇ぶにあらずや。其の悪を攻め、人の悪を攻めず。慝を脩むるにあらずや。一朝の忿(いか)りに其の身を忘れ、以て其の親に及ぶ。惑いにあらずや。

(新)樊遅が孔子に従って、舞雩(あまごい)の台の下の広場で休んだ。曰く、徳を崇び、慝(あ)しきを祓い、惑いを弁ずるの三箇条の意味をお尋ねしたく思います。子曰く、なかなかいい質問だ。先ず働いて、報酬は期待しない。それが修養の第一要件だと悟ることだ。自分の過失をば強く咎めるが、他人には人身攻撃を行わない。それが慝しきを祓うことになる。一時のふとした腹立ちから、我が身を忘れるのみか、その親にまで迷惑をかける。そういうことが惑いだと悟るのが弁感だ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 勉強ずきの御者こと樊遅が登場。なにしろ御者ですから孔子の出かけるところにはついて行きます。舞雩に出かける、というのは曾晢が「舞雩あたりに出かけるのも、ちょいとオツじゃござんせんか」といったことでもおなじみのお出かけスポット。

舞雩は、まえの先進第十一の終りに見えたように、雨乞いの祭りをする祭壇であり、魯国の首都曲阜の郊外にあったが、そこには林があり、散歩の場所でもあった。樊遅が孔子の散歩のお供をして、そこの林の下をあるいていたときの問答である。孔子はいつもよりも、質問のしやすい気やすい状態であったであろう。樊遅の問いが、敢えて問う、で始まっているのも、この想像を強める。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 わたしは、樊遅はあまり他の弟子の前では質問できなかったのではないかと想像します。前にも帰りの車の中で質問したことがありましたからね。


 で、その質問とは、「崇徳。脩慝。弁惑。」。子張がすでに崇徳弁惑を問うていますから、これは宮崎先生が言いますように、「崇徳弁惑は何かの古典に出た語であろう」と考えるのがいいのでしょう。

なお、劉宝楠の「正義」では、この質問が、舞雩の下で発せられたことから発想し、崇徳、脩慝、弁惑は、雨乞いの祝詞につかわれる言葉であった、という説を、提出している。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 しかし出典はない、と。

 子張のように抽象論、名分論に陥りがちな弟子に対して孔子は普段の心構えを教えました。その点で言えば、樊遅にたいしても似たような教えですね。

 崇徳とは、先に行動して、利得は後にする。損得勘定というのは不思議なもので、算数がニガテであってもこういう計算は下手なりに最優先で脳が計算を始めてしまうのですよね。何かものごとを行うとき、打算をぐっと呑み込んで行動を始める、ということは本当に大切です。

 脩慝とは、自分の悪をとがめ立てして、他人のことはとやかく言わない。これも、放っておくと人間を暗黒面に突き落とす、悪い癖になりがちですよね。岡目八目といいますか、他人のアラはよく見えるんですよねえ。もちろん教育を含む儒学ですから悪に見て見ぬふりをするわけではないのですが、葉隠でも

聞書第一 一四 人に意見をして疵を直すと云ふは大切の事、(略)大かたは、(略)人に恥をかゝせ、悪口すると同じ事なり

和辻・古川校訂『葉隠』上 岩波文庫

 などというように、「アタシはただ、よかれと思って……」などという軽い了簡では「攻人之悪」はできません。できないことはしない、それが脩慝(欠点の除去)につながる、というわけですね。

 弁惑は、なぜか子張の時は矛盾の実例で終わりましたが、ここでは怒りに身を任せて親にまで迷惑をかけるという、思慮を欠いた状態のことを説明しています。判断力を失ってはいけない、つねに戦戦兢兢、周りを見て行動しなさい、ということなのでしょう。