蜀犬 日に吠ゆ

2010-01-17

[][][]ワイス、ヒックマン『ドラゴンランス』3 角川つばさ文庫(その2) 19:20 はてなブックマーク - ワイス、ヒックマン『ドラゴンランス』3 角川つばさ文庫(その2) - 蜀犬 日に吠ゆ

  1. ドラゴンの夜
    • ドラゴン軍によって征服されたソレース。その「憩いのわが家」亭から話は始まる。
      • ソレースを襲ったドラゴンは五匹。さらにドラコニアンの地上部隊。
      • ドラコニアンたちは酒に目がないので、酒場は占領下の営業を要求される。
        • ドラコニアンが酒を飲む? またまたぁ… しかもティカにセクハラをかます。断じてそれは……夜の言葉ではない…… ポキープシでも、横須賀でも成り立つような酒場は…… クリンにあっていいのか?
  2. 見知らぬ客 囚われた!
    • 主人公たちがソレース、「憩いのわが家」亭に帰ってくる。
    • 食事はピリ辛の揚げじゃが
      • 新大陸発見以降の設定? 16世紀にしては銃火器がクリンにはありませんね。魔法がその代わりを果たしているのでしょうか。
        • だからジャガイモとか、トウモロコシとか、煙草とか、トウガラシは、登場させるときに気を遣いますよね。
    • わあ、ほんとにドラコニアンがティカにセクハラした。
      • 「おれたちは、あんたのなじみの男ってわけじゃないがな、ねえちゃんよ」酔って、鱗のはえた腕をティカの腰にまわす。「だが、だからってあんたを楽しませる方法がないわけじゃない」
    • 客の一人がエルフであると判明し、ドラコニアンと争いになり、結果全員ホブゴブリンの隊長トードの捕虜となる。
      • 主人公達って、いつも疲れていて、いつも空腹で、いつも多勢に無勢に負けるんですね。レベルが低いといったって、ふつうホブゴブリンごときにおさおさ負けないのでしょうけれども。

これまでの感想

城砦の赤竜 その1



[][][]蛇の章を読む(その12) 19:20 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その12) - 蜀犬 日に吠ゆ


犀の角のようにただ独り歩め

第一 蛇の章

三、犀の角

五七 義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。貪りに耽り怠っている人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。

五八 学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。

五九 世の中の遊戯や娯楽や快楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。

六〇 妻子も、父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。

六一 「これは執著である。ここには楽しみは少く、快い味わいも少くて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。

六二 水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。

六三 俯して視、とめどなくうろつくことなく、諸々の感官を防いで守り、こころを護り(慎み)、(煩悩の)流れ出ることなく、(煩悩の火に)焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 五八。註

為になることがら――自分の利、他人の利、両者の利という区別がある。或いは現世の利、来世の利、勝義の利という区別がある。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 五九、六〇

 これがまさに出家の生活なのである。ビクたちは遊戯や娯楽から遠ざかる。出家修行者は世俗の享楽をすべて離れるのであった。この態度は、南アジアでは今日に至るまで一貫している。そこでビクは映画を見てもよいかどうか、ということが現在南アジア諸国では問題となっている。一時ビルまでは認めようという動きもあったが、スリランカでは絶対に許されない。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 わかったような、わからないような。

 六三の註

 「俯して視る」というのは、謙遜の意味ではない。また禅宗でいう「脚下照顧」という趣意でもない。歩きながら虫を踏むことのないように注意するのである。この点は、ジャイナ教と共通であるが、当時の修行者一般が気づかって実践していたことである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 ウパニシャド界隈の流行?


[][][][]顔淵第十二を読む(その16) 17:26 はてなブックマーク - 顔淵第十二を読む(その16) - 蜀犬 日に吠ゆ

仁を問う。子曰く、人を愛す

 顔淵第十二(279~302)

300 樊遅問仁。子曰。愛人。問知。子曰。知人。樊遅未達。子曰。挙直錯諸枉。能使枉者直。樊遅退。見子夏曰。郷也吾見於夫子而問知。子曰。挙直錯諸枉。能使枉者直。何謂也。子夏曰。富哉言乎。舜有天下。選於衆。挙皐陶。不仁者遠矣。湯有天下。選於衆。挙伊尹。不仁者遠矣。

(訓)樊遅、仁を問う。子曰く、人を愛す。知を問う。子曰く、人を知る。樊遅未だ達せず。子曰く、直きを挙げてこれを枉(まが)れるに錯(お)き、能く枉れる者をして直からしむ。樊遅退く。子夏を見て曰く、郷(さき)にや吾れ夫子に見えて知を問うに、子曰く、直きを挙げてこれを枉れるに錯き、能く枉れる者をして直からしむ、と。何の謂いぞや。子夏曰く、富めるかな、言や。舜、天下を有(たも)ち、衆より選んで皐陶(こうよう)を挙げて、不仁者、遠ざかる。湯、天下を有ち、衆より選んで伊尹を挙げて、不仁者、遠ざかれり。

(新)樊遅が仁とは何かを尋ねた。子曰く、人を愛することだ。次に知とは何かを尋ねた。子曰く、人を知ることだ。樊遅には合点がいかない。その様子を見て、子曰く、正直な人間を登用して、曲がった人間の上に据えると、曲がった人間が正直になってくるものだ。樊遅が退出した。後に兄弟子の子夏にあって話した。この間、私は先生にお目に掛って、知とは何かを尋ねた。先生が仰るには、正直な人間を登用して、曲がった人間の上に据えると、曲がった人間が正直なってくるものだ、と言われたが、どういう意味でしょうか。子夏曰く、それは大いに意味深い言葉だ。恐らく舜が天子になって、大勢の中から選択して皐陶を登用すると、悪者どもが逃げ出した。殷の湯王が天子になって、大勢の中から選択して伊尹を登用すると、悪者どものが逃げ出したようなことを言われたのだろう。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 樊遅がつづけて二つの質問を行う。「仁とは何でしょう」「人を愛することだよ」「知とは何でしょう」「人を知ることだよ」。

 樊遅の理解が及ばなかったので、孔子が付け加えた、としますが、宮崎先生はじめ多くは、「人を知る」がわからなかった、という文脈で取りますが、宇野先生は、仁と知の整合性に悩んだとし、そのほうがわかりやすいかも知れません。しかしそうなると、あとで子夏に「知」の方だけ引用して尋ねなおした部分とは合わなくなってしまいますが。

樊遅は人を愛するというのは徧(ひろ)く人を愛することであり、人を知るというのは人を区別することであって、徧く愛することとは衝突するようであると思われて、まだよく理会できなかった。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 孔子から説明を受けても、

樊遅は孔子の言葉を知のことだけだと思って、「能く枉(まが)れる者をして直からしむ(能使枉者直)」が仁を兼ねていることを暁(さと)らなかったのである。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 よくわからなかったまま退出してしまったのはまずかったのですが、その後で子夏に尋ねなおしたことは立派ですね。


 はじめの孔子のシンプルな答え、「愛人」「知人」だけでも論語の章句としては成立しそうですが、この章はすこし詳しく説明がなされ、またそれにたいして子夏の解説が付いています。儒学というものがどのようにして発達したのかの端緒をうかがい知ることができるかもしれませんね。


 まあ、それはともかく、孔子の言わんとするところは、「人の置かれた立場やその才覚、能力などを推し量り(ここまでが知)、その人の能力を十分発揮でき、またまわりの人にもよい感化を及ぼせるような地位につけてあげる(これが仁)、そういう為政者がいれば理想的だね」と言うことなのでしょう。


 「未達」はさすがに「ずばぬけていない」とはしませんね。