蜀犬 日に吠ゆ

2010-01-21

[][][]蛇の章を読む(その15) 19:30 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その15) - 蜀犬 日に吠ゆ

耕して種を播く

第一 蛇の章

四、田を耕すパーラドヴァージャ

 わたくしが聞いたところによると、――あるとき尊き師(ブッダ)はマガダ国の南山にある「一つの茅」というバラモン村におられた。そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは、種子(たね)を播く時に五百挺の鋤を牛に結びつけた。

 そのとき師(ブッダ)は朝早く内衣を着け、鉢と上衣をたずさえて、田を耕すバラモン・バーラドヴァージャが仕事をしているところへ赴かれた。ところでそのときに田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは食物を配給していた。

 そこで師は食物を配給しているところに近づいて、傍らに立たれた。田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは、師が食を受けるために立っているのを見た。そこで師に告げていった、「道の人よ。わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え」と。

 (師は答えた)、「バラモンよ、わたくしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う」と。

 (バラモンがいった)、「しかしわれらは、ゴータマさん(ブッダ)の軛も鋤も鋤先も突棒も牛も見ない。それなのにゴータマさんは『バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う』という」と。

 そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは詩を以て師に呼びかけた。


七六 「あなたは農夫であるとみずから称しておられますが、われらはあなたが耕作するのを見たことがない。おたずねします、――あなたが耕作するということを、われらが了解し得るように話してください。」

七七 (師は答えた)、「わたしにとっては、信仰が種子(たね)である。苦行が雨である。智慧がわが軛と鋤とである。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることがわが鋤先と突棒とである。

七八 身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたくしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和がわたくしにとって(牛の)軛を離すことである。

七九 努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば、憂えることがない。

八〇 この耕作はこのようになされ、甘露の果実(みのり)をもたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 さあ、いよいよ師ブッダが旅に出ました。田を耕すバラモン・バーラドヴァージャとの対話が始まります。註によればこれはブッダオリジナルではないそうですが。

ジャイナ教のほうに伝わったIsibhasiyaim,chapter 26(p.529)のうちに同様の対話が存する。同様に、宗教的修養を農耕にたとえている。仏典(『スッタニパータ』など)の叙述のほうが、ジャイナ教のそれよりももっと発達した形態を具えている。恐らく、両宗教が起るよりも以前から、一般修行者のあいだでこのような説明がなされていて、ジャイナ教も仏教もそれを継承し、それぞれ独自に発展させたのであろう。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 「わたくしが聞いたところによると」はいわゆる「如是我聞」でしょうか。註では

 わたくしが聞いたところによると――evam me sutam.

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 となるようです。

 師ブッダは南山のバーラドヴァージャと対話します。

 バーラドヴァージャ――Bharadvaja. この姓はバラモンの姓である。奈良の大仏の開眼供養の導師をつとめた婆羅門僧正はインド人であったが、かれの俗姓はBharadvaja であった。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 すると漢字表記は菩提僊那となりますかね。

 仏教の僧侶は働かない。無為徒食しているではないか、ということは、インドでは後世になってもバラモン教徒から発せられた非難であった。シナ・日本の儒学者、日本の国学者も、仏教に対して同様の非難をむけていた。ここでは思想史的に重大な問題が提起されているのである。これに対して仏教側からは、修養生活に勤めることが積極的な行動であると答えているのである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 たしかに仏教の、この部分はいただけませんが、禅宗のように作務を始めてしまうのも、仏教の要諦からすればすこし誤解があるのではないかと思います。すべての人が出家すると人類は滅ぶわけですが、「滅んでもいいじゃん」というのが仏教の立場であるはず。

 七七の註。

 苦行――苦行の称讃については『マヌ法典』第一一編第二三九詩参照

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 仏教は苦行を否定するはずですが、この章自体が仏教以前の修行者の対話を取り込んだものなのでこうした部分が残ってしまったのでしょうか。

 安穏――その原語yogakkhema は、通常ニルヴァーナの同義語と解せられる。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 甘露――甘露の原語amata は「不死」という意味もある。だからここの文句は「不死の果報をもたらす」と訳すこともできる。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 バーラドヴァージャは、師ブッダに対して「なぜ働かないのか」と韻文形式で尋ねます。師ブッダはそれに対して「修養生活こそが私の仕事だ」と、これまた韻文形式で答えたのでした。