蜀犬 日に吠ゆ

2010-01-24

[][]ただ狂へ~~『歌謡Ⅱ 閑吟集』観賞日本古典文学 角川書店 21:03 はてなブックマーク - ただ狂へ~~『歌謡Ⅱ 閑吟集』観賞日本古典文学 角川書店 - 蜀犬 日に吠ゆ

小 何せうぞ くすんで

  一期は夢よ ただ狂へ(五五)

新間進一 志田延義編『歌謡Ⅱ 梁塵秘抄 閑吟集 他』観賞日本古典文学15 角川書店

 冒頭の「小」は小歌であることの記号。仏教の無常観を、日本人が半端に解釈するとこうなります。角川のこのシリーズは抄録、ではなく本文をおろ抜いて編者の解説が中心の「読み物」なのですが、逆にテーマ毎になっていますので、読むのに便利。以下記号を省略して無常の小歌を列挙。

 年々に人こそ旧りてなき世なれ 色も香もかはらぬ宿の花ざかり かはらぬ宿の花ざかり たれ見はやさんとばかりに 又めぐりきて小車の 我とうき世にあり明の つきぬや恨みなるらしむ よしそれとても春の夜の 夢のうちなる夢なれや(一三)


 神ぞ知るらん春日野の 奈良の都に年を経て 盛り深けゆく八重桜 盛り深けゆく八重桜 散ればぞ誘ふ誘へばぞ 散るは程なく露の身の 風を待つ間の程ばかり 憂きこと繁くなくもがな 憂きこと繁くなくもがな(二八)


 世間(よのなか)はちろりに過ぐる ちろりちろり(四九)


 何ともなやなう 何ともなやなう 浮世は風波の一葉よ(五〇)


 何ともなやなう 何ともなやなう 人生七十古来稀なり(五一)


 ただ何事もかごとも 夢幻や水の泡 笹の葉に置く露の間に あぢきなの世や(五二)


 夢幻や南無三宝(五三)


 くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を 現顔(うつつがほ)して(五四)


 思ひまはせば小車の 思ひまはせば小車の わづかなりける浮世かな(六三)


 夢の戯れいたづらに松風に知らせじ 槿(あさがほ)は日に萎れ 野艸(のぐさ)の露は風に消え かかる儚き夢の世を 現(うつつ)と住むぞ迷ひなる(九五)


 ただ人は情あれ 槿(あさがほ)の花の上なる露の世に(九六)


 来ぬも可なり 夢の間の露の身の 逢ふとも宵の稲妻(一三九)


 思へば露の身よ いつまでの夕べなるらむ(一五四)


 世事(せいじ)邯鄲枕(かんたんノまくら) 人情(じんせい)灔澦灘(えんよノなだ)(一七三)


 憂きも一時(ひととき) 嬉しきも 思ひ醒せば夢候(そろ)よ(一九三)


 篠の篠屋の村時雨 あら定め無の 憂き世やなう(一九五)


 世間(よのなか)は霰よなう 笹の葉の上の さらさらっと 降るよなう(二三一)


 凡そ人界(にんがい)の有様を しばらく思惟して観れば 傀儡(くわいらい)棚頭(ぼうとう)に彼我をあらそひ 真いづれの所ぞや 妄想(まうざう)顚倒(てんだう)夢幻の世の中に 在るを有るとや思ふらん(二三二)


 夢通ふ道さへ絶えぬ呉竹の 伏見の里の雪の下折れと 詠みしも風雅の道ぞかし げに面白やわか竹のはる竹の簓(ささら)ならば 夢の通ひ路絶えなまし 千秋万歳(ばんぜい)の栄華も 破竹の内の楽しみぞ あぢきなの憂き世や 夢さへ見果てざりけり(二五〇)

新間進一 志田延義編『歌謡Ⅱ 梁塵秘抄 閑吟集 他』観賞日本古典文学15 角川書店

 拗ねたものですねえ。


[][][]蛇の章を読む(その18) 19:37 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その18) - 蜀犬 日に吠ゆ

四種の修行者

第一 蛇の章

五、チュンダ

八三 鍛冶工の子チュンダがいった、「偉大な智慧ある聖者・目ざめた人・真理の主・妄執を離れた人・人類の最上者・優れた御者に、わたくしはおたずねします。――世間にはどれだけの修行者がいますか? どうぞお説きください。」

八四 師(ブッダ)は答えた、「チュンダよ。四種の修行者があり、第五の者はありません。面と向って問われたのだから、それらをあなたに明かしましょう。――(道による勝者)と(道を説く者)と(道において生活する者)と及び(道を汚す者)とです。」

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 註より。

 チュンダ――この一連の詩句はパーヴァーにおいて師ブッダが鍛冶工チュンダ(Cunda)に説いた説法の要領を後代の人がまとめたものである。実際の説法はもっと長く行われたにちがいないが、後の人がこのように短くしかも問答体の詩にまとめたものであると考えられる。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 またチュンダさんは鍛冶工となっていますが、この職業は金銀細工人(彫金師?)を含むことから、「金属細工人」という訳も成り立つということです。

 チュンダは釈尊並びに弟子たちを招待し得たのであるから富裕な人であったにちがいない。しかしインドのカースト社会においては、鍛冶工や金属細工人は賤しい職業と見なされ、蔑視されていた。その招待を釈尊は受けいれたのである。ここにわれわれは二つの注目すべき歴史的特徴を認めることができる。(1)当時漸く富裕となりつつあったが、社会的に蔑視されていた人々は、新しい精神的な指導者を求めていた。(2)ゴータマ・ブッダの動きは当時のこの階級的差別打破の要求に応えたものであった。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 社会的な要求に呼応してゴータマさんが出てきたのか、ゴータマさんの思想が変革期にある社会にうまく結びついたのか、というのは判断がつきかねるところです。

 とにもかくにも、チュンダの質問には、そういう階級差別への疑問が隠されているのかもしれないと見ると、単に修行者の有り難さを説いても仕方がない、ということは師ブッダにも分かったことでしょう。ブッダは修行者を、そのなかで四つに分けます。

 道による勝者――maggajino ti maggena sabbakilese vijitvi ti attho. 勝者の原語はjina であるが、煩悩にうち勝った人であるから、このようにいうのだ、と南方仏教徒は解した。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 つーか、ジャイナ教徒ではないでしょうか。極端な出家をする仏教徒は、ジャイナ教徒と見分けがつかないのではないか、と思ってしまいます。

 道を説く者――註によると、他人のために道を説く人である。 maggadesko ti paresam maggam deseta.

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 おお、利他行。大乗っぽい。

 道において生活する者――これについてはブッダゴーサは二種類の解釈を挙げている。「これからまだ学ばねばならぬ人々である七衆のうちで、だれでも学ばねばならぬ人(有学)が、道に住することを完全に実行し終えていないから、出世間のうちにある持戒の凡夫が、まだ世間的な道のうちに生活していることである。あるいはまた、持戒の凡夫が、出世間的な道のために(それをめざして)生活していることからもまた(道において生活している)のであると知るべきである。」

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 生活とは、出家者の行ではなくて、通常の生業を営んで暮らすことをさすのでしょう。ですから、出家したのに俗世間と切れていない者、出家するつもりはあってもいまだできていない者、が、「道において生活する者」に、分類されます。

「道によって生きる者」(略)がいかなる者を意味するか、はっきりしないが、多くの本に「依道生活」(『仏般泥洹経』大正蔵、一巻一六七頁下、『般泥洹経』一八三頁下、『遊行経』一八頁中)と訳しているから、宗教者であることを一つの(生活の道)としている人、という意味であろうか(法顕訳『大般涅槃経』には出ていない)。

 いずれにしても、修行を完成していないが途中にある者のことである、と上座部は解していた。つまり(道による勝利者)よりは劣るけれども、(道を汚す者)よりは勝れているのである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 「生活のために道を選んだ者」も、ここには含まれる、と。日本のお坊さん達もここにはいる人が多いとは思いますが、だからといって裸で森の中をウロウロしても、それはそれで反社会的行為になってしまいますから難しいですねえ。

 道を汚す者――悪い習性があり、悪い見解をいだき、道に背反した行いをする者である。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 もとから間違った考えで道を選んだ者は、道を汚すことになる、と。


[][][][]子路第十三を読む(その5) 19:37 はてなブックマーク - 子路第十三を読む(その5) - 蜀犬 日に吠ゆ

詩三百を誦す

 子路第十三(303~332)

307 子曰。誦 詩三百。授之以政不達。使於四方。不能専対。雖多亦奚以為。

(訓)子曰く、詩三百を誦す。これに授くるに政を以てして達せず。四方に使いして専対する能わずんば、多しと雖も亦奚(なに)を以て為さん。

(新)子曰く、詩経の三百篇をまるまる暗誦する勉強をした。さてこの人に政治を任せたが運営できない。外国へ使者に出されたが、自己の決断力で交渉を纏めることができない、としたならば、長い間の詩経の勉強はいったい何の役に立つのか。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 詩三百、思い邪なし、というくらい、孔子の教団では重要視された詩経です。詩を学ぶことによって、人は社会における人情や風俗のありよう、道義のありかを学ぶことができます。が、詩経を学ぶことが重要ではなくて、あくまでそれは為政者としての教養であって、もちろん教養がないものに政治を執ることなどできないのですが、逆に教養があるからといって政治がとれるとはかぎらないこともあるわけで、それは学んだことにならない、というのでしょう。


 たしかに、何かを実現するための手段としての研究や学問があるのにもかかわらず、それが自己目的化してしまう人というのもいますよね。あるいは、評論家タイプで、岡目八目だからいいことが言えるのを自分の能力が高いからだと勘違いして、無責任なときには饒舌ですが責任ある立場につくと一気に……うーん、一体誰のことだろう? この話はこの辺でやめておきますね。