蜀犬 日に吠ゆ

2010-01-27

[][]柴田宵曲『蕉門の人々』岩波文庫 21:57 はてなブックマーク - 柴田宵曲『蕉門の人々』岩波文庫 - 蜀犬 日に吠ゆ

俳諧随筆蕉門の人々 (岩波文庫 緑 106-2)

俳諧随筆蕉門の人々 (岩波文庫 緑 106-2)

 パラパラめくって、目を疑い、そのあと笑ってしまった一節。

一笑

 笠ぬげて何にてもなきかゞしかな 一笑

 一笑にこの句のあることは『西の雲』によってはじめて知り得たのであるが、どういうものかこれと同調同想の句がいくつもる。

 笠ぬげておもしろもなきかゞしかな 舎羅

  訪河尾主人

 笠ぬいで面目もなきかゞしかな 風草

 笠とれて面目もなき案山子かな 蕪村

 三句の中では舎羅が一番早いが、それも元禄十五年の『初便(はつだより)』に出ているものだから、一笑の句からいえば、後塵を拝したことになる。案山子に笠はつきものであるにしても、どうしてこんなに同想同調が繰返されたものか、全くわからない。風草、蕪村の二句に比すると、舎羅の句は擬人的色彩が乏しいように思ったが、一笑の句は更に淡泊である。しかしこの句が出て来た以上、何人も一笑が先鞭を著けた功を認めなければなるまいと思う。

柴田宵曲『蕉門の人々』岩波文庫

 俳句って、50^17でしょう? 季語だなんだと制約があれば、どうしても被る作品があると思っていました。その実例をこんなところで見るとは。もちろん「俤」は考慮の外としても、こういうことって、やっぱりあるんだなあ、と。


[][]村上春樹 柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』文春新書 21:15 はてなブックマーク - 村上春樹 柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』文春新書 - 蜀犬 日に吠ゆ

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

 とにかく、『ハック・フィン』を読み返すべきかどうか悩まなければならないことが分かりました。

 村上春樹の『キャッチャー』は、多分ミーハー的興味から購入したとは思うのですが、どこにしまってしまったか……

 まあその新訳誕生のエピソードなども楽しかった。

ライ麦畑の翻訳者たち まえがきにかえて

『キャッチャー』の日本語翻訳権(無期限)は白水社が持っていて、ほかのどの日本の出版社も、これを翻訳出版することができないのだ。これくらい昔(一九五一年)に出版された本であれば、複数の出版社から翻訳が出るのが、通常のケースである。たとえばフィッツジェラルドやヘミングウェイやカポーティ、彼らの代表作はみんないくつかの出版社から訳書が出ている。というか、サリンジャー氏の場合だって、『ナイン・ストーリーズ』や『フラニーとズーイ』なんかは、複数の訳書が出ている。ところがこの『キャッチャー』だけは、事情が違うのだ。日本では白水社しかそれを出版することができない。そしてこの白水社からは、野崎孝氏の翻訳(一九六四年出版)が既に出ている。定評のある、歴史的と言ってもいい翻訳である。となると、僕の出る幕はない。

 そんなわけで、「これじゃしょうがないな」とあきらめて、そのまま数年が経過したのだが、ある日、白水社の山本さんという編集者から、「村上さん、我が社のために『キャッチャー』の新訳をやっていただけませんでしょうか?」という話があった。僕としてはまことにありがたい申し出なのだが、そうなると同じ出版社から出ている野崎孝訳を現実的に押しやってしまうことになるかもしれないし、それはこちらとしては望むところではない。だからどうすれば二冊の訳書の共存、棲み分けができるかということについての話し合いが何度かもたれた。でもまあ、なんとかその調整もついて、実際に翻訳作業が開始された。僕もちょうど長編小説(『海辺のカフカ』)の執筆が一段落したところだったので、心おきなく、楽しく翻訳作業に専念することができた。

村上春樹 柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』文春新書

 白水社の意図は奈辺にありや。

対話1 ホールデンはサリンジャーなのか?

柴田 そうすると、この後、第三、第四の『キャッチャー』訳が出てきてもいいわけですね。

村上 もちろん。白水社さえよければ(笑)。ちょっと説明しておきますと、この小説の独占翻訳権は白水社が持っているんです。だから原理的に言えば、白水社はいくつでも翻訳を出せます。しかし他の出版社にはこの本の翻訳は出せません。そのへんの事情は『ナイン・ストーリーズ』とか『フラニーとズーイ』なんかとは違っているんです。白水社の方に聞くと、「気がついたら、たまたまそういう契約になっていたんです。ラッキーでした」とおっしゃっていましたが。

村上春樹 柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』文春新書

 村上さんと白水社の距離が遠い印象。





[][][]蛇の章を読む(その20) 21:06 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その20) - 蜀犬 日に吠ゆ

破滅への門は何ですか?

第一 蛇の章

六、破滅

 わたくしが聞いたところによると、――あるとき師(ブッダ)は、サーヴァッティーのジェータ林、(孤独なる人々に食を給する長者)の園におられた。そのとき一人の容色麗しい神が、夜半を過ぎたころ、ジェータ林を隈なく照らして、師(ブッダ)のもとに近づいた。近づいてから師に敬礼して傍らに立った。そうしてその神は師に詩を以て呼びかけた。

九一 「われらは、(破滅する人)のことをゴータマ(ブッダ)におたずねします。破滅への門は何ですか? 師にそれを聞こうとしてわれらはここに来たのですが、――。」

九二 (師は答えた)「栄える人を識別することは易く、破滅を識別することも易い。理法を愛する人は栄え、理法を嫌う人は敗れる。」

九三 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第一の破滅です。先生! 第二のものを説いてください。破滅への門は何ですか?」

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 とりあえずここまで。

 註。

 サーヴァッティー――Savatthi. 「舎衛城」などと訳す。

 ジェータ林――Jetavana. 一般に「祇園」と訳されている。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

九一 ゴータマ――Gotama. 「ゴータマ」は「最もよき牛」という意味であり、ブッダ(釈尊)の姓(gotta)の名である。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 なるほど……というか、どうしてゴータマさんが初出のとき(田を耕すバラモン・バーラドヴァージャの回)にこの註がなかったのでしょうか。

 ところで神は人間よりも一段と格が上であるから、釈尊に呼びかける場合にも、ただ「ゴータマよ!」といって、尊称や敬称を用いないのである。バラモンが釈尊に呼びかける場合も同様であった。例えば、バラモンである大臣ヴァッサカーラも、「きみ、ゴータマよ!」(bho Gotama!)といって呼びかけている(Mhp,Ⅰ、3)。釈尊は王族(クシャトリヤ)の出身であり、ヴァッサカーラはバラモンであったから、いくらかさげすんで、このように呼んだのである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 なるほど、しかし、田を耕すバラモン・バーラドヴァージャは「ゴータマさん」と呼んでいましたよねえ、問答に感服してからは「ゴータマさま」だったのですが、バーラドヴァージャさんは仏教側の人だからカーストとは別なのでしょうか。

 あと、神が「一人」とあるのに「われら」とか言うのは、the royal "we" 的な用法なのかしらん。

九三 先生!――bhagava. 呼びかけである(主格ではない。主格ならば次の語がbruhi とはならぬ)。インドでは弟子は、師に対してこの呼びかけを用いる。(略)最初期の仏典は、インド一般のこの風習を受けているのである。故にゴータマ・ブッダが人間らしく叙述されている箇所(特に呼びかけ)では「先生」と訳し、これに対していくらか神格化されている場合には「尊師」と訳した。漢訳では「世尊」という。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 「尊師」も、いやな言葉になりましたからね。難しいものです(人間社会とは)。


[][][][]子路第十三を読む(その8) 20:29 はてなブックマーク - 子路第十三を読む(その8) - 蜀犬 日に吠ゆ

曰く、既に富めば、又何をか加えん

 子路第十三(303~332)

311 子適衛。冉有僕。子曰。庶矣哉。冉有曰。既庶矣。又何加焉。曰。富之。曰既富矣。又何加焉。曰。教之。

(訓)子、衛に適(ゆ)く。冉有、僕たり。子曰く、庶(おお)いかな。冉有曰く、既に庶し。又何をか加えん。曰く、これを富まさん。曰く、既に富めば、又何をか加えん。曰く、これに教えん。

(新)孔子が衛に行った。冉有が御者となって車を走らせた。子曰く、大勢の人だな。冉有曰く、人が多くても、何か足りないものがありますか。曰く、生活を楽にしてやらねば。曰く、生活が楽になったとします。まだ足らぬものがありますか。曰く、教育することだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 冉有の、この質問の仕方は、子貢の、必ず已むを得ずして去らばとは逆ですね。

 人が多いというのは、

老先生はおっしゃった。「人が多いな。(逃げないのはいいことだ)」

加地伸行『論語』講談社現代新書

 というわけで、民を虐げず、平和な国では、人が逃げず、むしろ集まってくるのでした。

 孔子の政治の理想は、民にまで文明を行き渡らせることにありますが、それは、経済的基盤をつくってからだということでしょうか。人が多いと言うことは、あるていど「信」があるということと見てよいのかもしれませんし、民から「信」がある、というのはそのくらいの意味なのかもしれませんね。