蜀犬 日に吠ゆ

2010-01-29

[][]村上春樹 柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』文春新書 19:44 はてなブックマーク - 村上春樹 柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』文春新書 - 蜀犬 日に吠ゆ

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

 今週の初めから、ホールデンのことを考えていました。

 もちろん、村上柴田両氏の語るところのホールデンではありますが、サリンジャー氏はホールデンに何かを詰めこむことはできず、むしろホールデンを通してあふれ出てくるものによってサリンジャーになってしまったかのようです。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』訳者解説

サリンジャーは激怒し、(略)そして地所のまわりに高さ二メートルの塀を巡らせ、人が入ってこられないようにしてしまった。そのようにしてサリンジャーは、期待していた田園生活の無垢さにさえ裏切られ、急速に孤立した生活に入りこんでいく。イノセンスへの強い憧憬と、その憧憬が裏切られたときの激しい絶望という対比が、かれの人生の一つの重要な命題となっていく(略)

村上春樹 柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』文春新書
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』訳者解説

 それからあとのサリンジャーの生活は、もはや伝説・神話の領域に入ってしまう。彼は一九五五年に、ラドクリフ大学の学生であったクレアという女性と結婚し、その後二人の子供をもうけるが、クレアは孤立した生活の中で精神に変調をきたし、家を出て、一九六七年に正式に離婚する。サリンジャーが人前に出ることは稀になり、発表する作品の量はしだいに少なくなり、やがて一九六五年を境にばったりと途絶えてしまう。写真さえ――非公式な「スクープ写真」を別にすればだが――公表されることはなかった。彼は住居から四百メートルばかり離れたところにある、コンクリートで造られた小要塞のような建物の中にこもって、日々休むことなく小説を執筆しているが、書かれたものが活字になって発表されることは一切ない。何人かの証言によれば、彼は今でも、いったん書き始めると十五時間か十六時間は休みなく執筆を続けているということだ。執筆が佳境に入ると、母屋に帰ってくることもなくなってしまう。小屋に泊まり込んで、一人で簡単な食事をとる。

村上春樹 柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』文春新書
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』訳者解説

一九六五年以降、彼がまともなものを書けなくなってしまったのか、あるいは書いてもただ発表しないだけなのか、それは誰にもわからない。サリンジャーも自分の執筆活動に関してはまったく口を閉ざしている。人びとは様々な意見を述べるが、結局のところどれもすべて、伝聞か推測に過ぎない。伝説のひとつによれば、彼の書斎には十数冊の長編小説の完成原稿が積み上げられているということである。

村上春樹 柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』文春新書

 こういう無根拠な伝説は楽しいですね。

 サリンジャーの話を読んだのでサリンジャーのことを思い出し、村上訳の『キャッチャー』も、確かどこかにあるはずで、読んだはずですが全然覚えていないので、また見つかったら読み返したいですね。


[][][]蛇の章を読む(その22) 20:48 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その22) - 蜀犬 日に吠ゆ

破滅への門は何ですか?


 前回の、神の質問から

一〇七 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第八の破滅です。先生! 第九のものを説いてください。破滅への門は何ですか?」

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

第一 蛇の章

六、破滅

一〇八 「おのが妻に満足せず、遊女に交わり、他人の妻に交わる、――これは破滅への門である。」

一〇九 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第九の破滅です。先生! 第十のものを説いてください。破滅への門は何ですか?」

一一〇 「青春を過ぎた男が、ティンバル果のように盛り上った乳房のある若い女を誘(ひ)き入れて、かの女についての嫉妬から夜も眠られない、これは破滅への門である。」

一一一 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第十の破滅です。先生! 第十一のものを説いてください。破滅への門は何ですか?」

一一二 「酒肉に荒み、財を浪費する女、またはこのような男に、実験を託すならば、これは破滅への門である。」

一一三 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第十一の破滅です。先生! 第十二のものを説いてください。破滅への門は何ですか?」

一一四 「クシャトリヤ(王族)の家に生まれた人が、財力が少ないのに欲望が大きくて、

  この世で王位を獲(え)ようと欲するならば、

  これは破滅への門である。

一一五 世の中にはこのような破滅のあることを考察して、

  賢者・すぐれた人は真理を見て、

  幸せな世界を体得する。」

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 あいかわらず、世俗的な道徳を繰り返す、の巻。

 註。

一〇八 では、他人の妻でもなく、遊女(vesiya)でもない女たちを玩ぶことはどうなのか? ガール・ハントをしてもよいか、どうか。恐らく当時は若い男女の交際はあまり自由ではなかったので、そのことは問題とされなかったのだろう。現代のインドにおいても、若い男女の交際に関する制約は、一般に厳しい。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 という社会状況におんぶにだっこされるのであれば、師ブッダの言葉は限定的であり、普遍の真理というてんからすると価値が低くなってしまうようにも思います。この節単体をとりだすならば、仏教の教えには不備があると言われても仕方のないところです。

一一〇 ティンバル果――timbaru, tinduka ともいう。樹木の名。漢訳名は不明。(略)満久崇麿『仏典の植物』(八坂書房、昭和五二年四月、一二五―一二七頁)によると「インドガキ(鎮頭迦、ちんずうか)」といわれ、「インドガキの材はカキ属特有の艶のある緻密な木肌をしており、辺材は明るい淡褐色であるが、心材は灰褐色に黒色の縞が不規則に走っている。縞が少く工芸的価値は黒檀に比較して低いが、強くて工具類の柄に適し、時には縞黒檀として通用することもある」という。

 そうして、本書のこの箇所については「緑の葉の間からちょうどビワの実のような橙黄色から橙紅色の可愛いい実がちらちらとのぞいている様は乳房というよりは乳首といった方がふさわしい。乳房はむしろターラ(オオギヤシ)の実の方で……」と説明している。しかし何にもとづいたのか立論の根拠は不明で。ブッダゴーサは特に説明は述べていない。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 立論、というほどのものか?

 註解によると、「『青春を過ぎた男が』というのは、青春を過ぎて、八十または九十となって、という意味である。『誘き入れて』というのは、所有する(pari-ganhati)ということである。『ティンバル果のような乳房のある女を』(timbarutthani)というのは、『ティンバルの果実にも似た乳房のある若い少女を』ということである。『かの女についての嫉妬から夜も眠られない』とは、『若い女にとっては老いぼれ(mahallaka)と快楽に耽ったり、共に住むのは、楽しくない。(他の)ひとが若い女を求めることがないように』という嫉妬の故に、彼女を大切に護って眠られない。かれは愛欲(kamarga)と嫉妬に焼きつけられて(dayhanto)、外では事業に努めないから、破滅してしまうのである」(Pj.p.172)という。邦語で嫉妬することを「やく」という。そこまでも同じである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 同じかなあ。あと、青春を過ぎて、というのが八十代、九十代であるというのも、にわかには信じがたい。青春まっただ中であっても女を所有するなどということそのものが許されない、というのは現代的感覚でしょうけれども、子を生み、育て、という観念からも、八十を超えてはあまりに無責任でしょう。

 これを近年の表現に翻訳すると、「老いらくの恋」はいけないということになるのであろうか。ネパールでは、結婚の際に男女の年齢差が二十歳以上ある場合には、禁止されているが、それはこのような趣意を生かしているのであろう。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 一一二

 仏教では酒は後代に至るまで禁止されているが(タントラ的密教を除く)、さらに肉食に耽溺することも好まなかったことが解る。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 斎戒中は肉食も禁止でしょうに。なんというか、師ブッダは適当すぎます。

一一五 幸せな世界を体得する――sa lokam bhajate sivam. 幸せな世界を体得すると気づいた境地が(幸せな世界)である、というのであろう。パーリ文の註にはsiva loka=devaloka と解して、「幸せな世界」とは「神々の世界」をいうのだと解するが、それは善き在俗信徒は死後に神々の世界に生まれると解する後代の見解をここにもち込んでいるのである。本文に関する限り、そのように解する必要はない。ことに原文のbhajateは「あずかる」「享受する」というほどの意味である。「天」という別の場所に到達することを意味しているのではない。いま生きているこの場所に(幸せな世界)が存在するのである。

 以上、この一節においては、悪いと思ったことを、ただ思いつくままに述べているのである。体系化されていない。五戒、八斎戒というよな、徳目の体系化がなされる以前の段階の教えであろう。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 ちょっと待て、菩提樹の下でこの世の真理を見極めてから、語り出したんと違うんかい。思いつきでべらべら喋られると、信者が苦労するというのに、師ブッダと来た日には……


[][][][]子路第十三を読む(その10) 20:02 はてなブックマーク - 子路第十三を読む(その10) - 蜀犬 日に吠ゆ

苟くも其の身を正しくせば

 子路第十三(303~332)

315 子曰。苟正其身矣。於従政乎何有。不能正其身。如正人政何。

(訓)子曰く、苟くも其の身を正しくせば、政に従うに於て何か有らん。其の身を正しくする能わずんば、何如ぞ人を正さん。政を如何せん。

(新)子曰く、もし自身の行いを正しくすることができれば、政治に従事することなど何でもない。もし自身の行いを正しくすることができねば、政治どころの話ではない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 だそうです。また「修身」の話ですね。其の身正しければで出たばかりの話題ですが、こうやって繰り返されるということは、重要であることのあらわれでしょう。孔子も表現を工夫しながら、同じことを繰り返しているわけです。

 正人の二字は恐らく政一字の誤りかと思われる。政の字の偏と旁とが二つに分かれ、作りの攵の上部が消えて、人となったのであろう。果して然りとすれば、後半と前半とがよく照応する。前半に政という字があった以上、後半にも政という字がなければ納まらぬ所である。如政何とは、政治どころではない、自身が危いぞ、という意味。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫