蜀犬 日に吠ゆ

2010-02-05

[][][]蛇の章を読む(その27) 22:03 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その27) - 蜀犬 日に吠ゆ

かれを賤しい人であると知れ

第一 蛇の章

七、賤しい人

一三一 この世で迷妄に覆われ、僅かの物が欲しくて、事実でない事を語る人、――かれを賤しい人であると知れ。

一三二 自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなった人、――かれを賤しい人であると知れ。

一三三 人を悩まし、欲深く、悪いことを欲し、ものおしみをし、あざむいて(徳がないのに敬われようと欲し)、恥じ入る心のない人、――かれを賤しい人であると知れ。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 註。一三一。

 人は何故嘘をつくのか? それは何者かを貪ろうという執着があるからである。人間が嘘をつくのは、特に利益に迷わされた場合が多い。保守的仏教では十の完全な徳(parami)を説くが、そのうちの第七として真実(sacca)を立てる。「たとい雷が頭上に落ちようとも、財宝などのために、利欲心などのために、知りつつも虚言をのべること(sampajana musavada)をしてはならない。あたかも暁の明星が、あらゆる時節を通じて、自分の行くべき路を捨てて他の路を行くことがなく、必ず自分の路をとって進むように、汝もまた真実を捨てて虚言を述べることがないならば、ブッダとなることができるであろう」(Jataka,Ⅰ、p.23)。事実を知らなかったために、偶然虚偽の申し立てとなったのは仕方がない。しかし意識して虚偽を述べてはならぬというのである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 暁の明星(金星)は、中国では「惑星」とされますが、ジャータカでは「自分の路をゆくもの」なのですね。

一三二 卑しくなった――(略)

 これを後代の漢訳仏典では「不自讃毀他戒」(ふじさんきたかい)という。自分をほめて他人をそしってはならぬ、というのである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

一三三 (略)

 恥じ入る心のない人――ahiriko anottapi. 後代のアビダルマ教学では、この両語の語義の相違が盛んに論議されるが、ここではhiri は「悪についてぞっと嫌悪すること」、ottapa は「悪について驚愕すること」と解していたようである(nassa papajjigucchanalakkhana hiri, na tato utasanato ubbegalakkhanam ottappan ti, Pj, 181)。


[][][][]子路第十三を読む(その16) 20:40 はてなブックマーク - 子路第十三を読む(その16) - 蜀犬 日に吠ゆ

居処するに恭しく

 子路第十三(303~332)

321 樊遅問仁。子曰。居処恭。執事敬。与人忠。雖之夷狄。不可棄也。

(訓)樊遅、仁を問う。子曰く、居処するに恭しく、事を執るに敬(つつ)しみ、人に与(むか)って忠ならば、夷狄に之(ゆ)くと雖も、棄つべからざるなり。

(新)樊遅が仁とは何かと尋ねた。子曰く、休憩中でも慎しみ深く、仕事している時は緊張し、人に対しては誠実をつくすことだ。これなら夷狄の国へ行ってもそのまま通る。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 樊遅が以前仁を問うた時には、「人を愛す」だ、と答えた孔子ですが、ここでは全く異なる問答が行われています。孔子は弟子たちの特性に合わせて教導の言葉を選んでいますが、同じ樊遅に異なる答えを与えるというのは、質問された時の状況が異なったからだと、考えることができるでしょう。

 では、この章句は、どのような状況で発せられたのか。その鍵となるのは孔子の言葉のおしまいに出てくる、「夷狄に之(ゆ)くと雖も」という仮定条件。ということは、将来ひょっとしたら夷狄の国にまで行かなければならなくなるかもしれない状況であると、この場合は言えるでしょう。つまり、樊遅が今回孔子に質問を出したのは流浪の旅を続けている最中である、と考えることが出来ます。「こうして流浪の旅を続けなければならないのは、いったいどういうわけでしょうか。先生が普段から仰る『仁』というものは、なんの役に立ちますか」とでも言いたげに、樊遅は「問仁」したのだと思われます。

 それに対する孔子の教えは、「郷国でくつろいでいるときも、仕事の時も、人と接するときも、それぞれにきちんとふるまうことが仁だよ。これは、夷狄の国に行ったとしても同じだよ。」というもの、すなわち、その言葉の裏には、「流浪の旅をしている現在も、魯国で仕官していた頃と同じだよ」という意味が含まれています。魯にいた過去と、最悪夷狄に行くかもしれない未来と、その間には、流浪の身である現在があるのですが、省略されているのでしょう。