蜀犬 日に吠ゆ

2010-02-05

[][][][]子路第十三を読む(その16) 20:40 はてなブックマーク - 子路第十三を読む(その16) - 蜀犬 日に吠ゆ

居処するに恭しく

 子路第十三(303~332)

321 樊遅問仁。子曰。居処恭。執事敬。与人忠。雖之夷狄。不可棄也。

(訓)樊遅、仁を問う。子曰く、居処するに恭しく、事を執るに敬(つつ)しみ、人に与(むか)って忠ならば、夷狄に之(ゆ)くと雖も、棄つべからざるなり。

(新)樊遅が仁とは何かと尋ねた。子曰く、休憩中でも慎しみ深く、仕事している時は緊張し、人に対しては誠実をつくすことだ。これなら夷狄の国へ行ってもそのまま通る。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 樊遅が以前仁を問うた時には、「人を愛す」だ、と答えた孔子ですが、ここでは全く異なる問答が行われています。孔子は弟子たちの特性に合わせて教導の言葉を選んでいますが、同じ樊遅に異なる答えを与えるというのは、質問された時の状況が異なったからだと、考えることができるでしょう。

 では、この章句は、どのような状況で発せられたのか。その鍵となるのは孔子の言葉のおしまいに出てくる、「夷狄に之(ゆ)くと雖も」という仮定条件。ということは、将来ひょっとしたら夷狄の国にまで行かなければならなくなるかもしれない状況であると、この場合は言えるでしょう。つまり、樊遅が今回孔子に質問を出したのは流浪の旅を続けている最中である、と考えることが出来ます。「こうして流浪の旅を続けなければならないのは、いったいどういうわけでしょうか。先生が普段から仰る『仁』というものは、なんの役に立ちますか」とでも言いたげに、樊遅は「問仁」したのだと思われます。

 それに対する孔子の教えは、「郷国でくつろいでいるときも、仕事の時も、人と接するときも、それぞれにきちんとふるまうことが仁だよ。これは、夷狄の国に行ったとしても同じだよ。」というもの、すなわち、その言葉の裏には、「流浪の旅をしている現在も、魯国で仕官していた頃と同じだよ」という意味が含まれています。魯にいた過去と、最悪夷狄に行くかもしれない未来と、その間には、流浪の身である現在があるのですが、省略されているのでしょう。