蜀犬 日に吠ゆ

2010-02-07

[][][]蛇の章を読む(その28) 19:50 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その28) - 蜀犬 日に吠ゆ

かれを賤しい人であると知れ

第一 蛇の章

七、賤しい人

一三四 目ざめた人(ブッダ)をそしり、或いは出家・在家のその弟子(仏弟子)をそしる人、――かれを賤しい人であると知れ。

一三五 実際は尊敬さるべき人ではないのに尊敬さるべき人(聖者)であると自称し、梵天を含む世界の盗賊である人、――かれこそ実に最下の賤しい人である。

 わたくしがそなたたちに説き示したこれらの人々は、実に(賤しい人)と呼ばれる。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 これも、不遇をかこつ師ブッダの、心の叫びが聞こえてきそうな言葉ですね。「僕が一番目ざめているのに、どうして世間はあんなインチキ宗教家ばっかり、ちやほやして!」

 註

一三四 ここで「目ざめた人」(buddha)は単数で示されている。この詩がつくられたころには、ようやく(当時としては)ただ一人であるブッダの権威が漸く確立したのであろう。

 仏弟子――仏弟子は、出家者と在家者と両者を含んでいた。ゴータマ・ブッダに帰依する人々は、古くはすべて弟子(savaka)と呼ばれたいた。その原義は、恐らく「教えを聞く人」という意味であったらしい。ゴータマの弟子のことを「仏弟子」(Buddha-savaka)、「仏の弟子」(Buddhassa savaka)、「等正覚者の弟子」(samma-sambuddha-savaka)、「ゴータマの弟子」(Gotama-savaka)などともいう。「教えを聞く人」(savaka)というときは、出家修行者を意味することもあったが、また在俗信者を意味することもあった。原始仏教聖典の古層においては在俗信者のことを「教えを聞く人」(savaka)と呼ぶことが非常に多い。これはジャイナ教における用例に一致するものであり、古い時代にはジャイナ教でも「教えを聞く人」(savaka)とは在家者(gihin)を意味するものであった。ジャイナ教で在家の弟子を savaka と呼ぶことは、仏典でも記されているが、それが仏教にとり入れられたのである。これはジャイナ教の場合と共通であり、恐らく仏教興起時代の一般宗教界で用いられていた呼称を、そのままとりいれたものであろう。ここでは出家修行者も在俗信徒も、ともに(「教えを聞く人」(savaka)の資格において)考えられている(中村『原始仏教の成立』二二七頁)。ところが後代の仏教では(小乗仏教でも、大乗仏教でも) savaka, sravaka とは「声聞」と漢訳され、小乗仏教教団の僧侶たちの意味になった。後代の仏教が、最初期の仏教徒はいかに異り、いかに変質したか、ということが、この点からも明らかであろう。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 ジャイナ教からの用語の借用というのは、意外に多い印象ですね。むしろマハーヴィーラ(ヴァルダマーナ)の方が、ウパニシャド界隈では幅を利かせていたのかもしれません。いやむしろ、セム型一神教のように、仏教がジャイナ教を換骨奪胎して作り上げた宗教……という話は聞いたことありませんものねえ。

一三五 尊敬さるべき人(聖者)――araha.

 盗賊――原語はパーリ語 cora である。尊敬されるに値しない人が尊敬を受けているのは、盗人だというのである。実に厳しい教えである。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 他人に厳しいですよねえ。羨ましがっていないで、師ブッダも布教に努めて欲しいものです。まあ、いままさに火に事えるバラモン・バーラドヴァージャに布教している最中なのですが、バーラドヴァージャさんも、こんな話(「おれが本当の「目ざめた者」で、他の奴らはインチキだ」)を聞かされて、返答に困ったのではないかと心配です。