蜀犬 日に吠ゆ

2010-02-07

[][][][]子路第十三を読む(その17) 19:50 はてなブックマーク - 子路第十三を読む(その17) - 蜀犬 日に吠ゆ

今の政に従う者は何如

 子路第十三(303~332)

322 子貢問曰。何如斯可謂之士矣。子曰。行己有恥。使於四方。不辱君命。可謂士矣。曰。敢問其次。曰。宗族称孝焉。郷党称弟焉。曰。敢問其次。曰。言必信。行必果。硜硜然小人哉。抑亦可以為次矣。曰。今之従政者何如。子曰。噫。斗筲之人。何足算也。

(訓)子貢、問うて曰く、何如(いか)なれば斯(ここ)にこれを士と謂うべきか。子曰く、己を行うに恥あり。四方に使いして君命を辱めず。士と謂うべし。曰く敢て其の次を問う。曰く、宗族、孝を称し、郷党、弟を称す。曰く、敢て其の次を問う。曰く、言うこと必ず信、行うこと必ず果。硜硜然(こうこうぜん)として小人なるかな。抑も亦た以て次と為すべし。曰く、今の政に従う者は何如。子曰く、噫、斗筲(とそう)の人、何ぞ算(かぞ)うるに足らんや。

(新)子貢が尋ねた。私どもはどのようにすれば求道の学徒たるの名に恥じないことになりましょうか。子曰く、自己の行為に全責任をもつ。外国に使いを出されて立派に使命を果すだけの力量をそなえる。それなら学徒と言ってよい。曰く、もう少し程度の低いところを教えて下さい。曰く、親族が口をそろえて孝行だといい、町内が一様に骨惜しみせぬと賞める人になることだ。曰く、もう一つ下の所を伺いたいと思います。曰く、言ったことは必ず守る。行うべきことに愚図愚図しない。大局的に見れば見識の狭い人間にすぎないが、それでもまだましな方と言えよう。曰く、現在の政治当局者はどの程度のでしょうか。子曰く、聞くだけ野暮だ。揃いも揃って小粒な帳面つけ役人で、問題にならぬ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 儒教は、若者達への教育を重要視しますから、身近で簡単なところから説明を始めて高尚な所へ向かいますが、この問答では、先に完成型をあげておいて卑近な方へ下がっていくという形式をとります。子貢が絡むとすこしひねった対話になるというのは、いつもの通り。

 廉恥心を持ち、外国でも君命に恥じない立ち居振る舞いができる、というのが士(というのは、君に事える立場の者、ということでしょうか)たるものの条件。それができないならば、せめて自分の家族や町内での評判のいい者、それでも無理なら、せめて約束を守り、自分の仕事は最後までやり、硜硜然(かたくるしい)のは小人と同じ、といったあたりを目指してはどうか、と。

 最後の床屋談義は、だからして「ワシを登用せんかい」ということになるのでしょうけれども、若い人たちがしっかりしていれば落ち着いて教育に腰を据えることも出来ましょうに、孔子お気の毒です。


必ずや狂狷か

 子路第十三(303~332)

323 子曰。不得中行而与之。必也狂狷乎。狂者進取。狷者有所不為也。

(訓)子曰く、中行なるものを得てこれに与(くみ)するにあらずんば、必ずや狂狷か。狂なる者は進んで取り、狷なる者は為さざる所あるなり。

(新)子曰く、欠点のない常識的な人間を見つけて仲間になることができなかったら、つむじ曲りか潔癖屋をさがすことだ。つむじ曲りは勉強するものだし、潔癖屋は欲望のために誘惑されることがない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 孟子による解説

巻十四 尽心章句下

三七

 万章問いて曰く、孔子陳に在(い)ませしとき、蓋(なん)ぞ帰らざる、吾が党の士は狂簡にして進取、其の初(志)を忘れずと曰(のた)まえり。孔子陳に在ませしとき、何ぞ魯の狂士を思いたまえる。孟子曰く、孔子は中道(中正の道をふむ人)を得て之に与(交)わりえざるときは、必ずや狂獧か。狂者は進んで取り、獧者は為さざる所あるなりと(曰まえり)。孔子豈(あに)中道を欲せざらんや、必ずしも得べからざるが故に其の次を思えるなり。

小林勝人訳注『孟子』下 岩波文庫

 つまり、中道の人などというのは滅多に会うことができないから狂狷をいうのであって、別に狂狷を褒めるとか、みなさん狂狷の人生を歩みましょう、とすすめているわけではない、とありがちな誤解に予防線をはります。というか、放縦な行いの言い訳にこの「狂狷」を使う人も、いたことでしょうね。

巻十四 尽心章句下

三七

敢えて問う、如何なれば斯(すなわ)ち狂と謂うべき。曰く、琴張(きんちょう)・曾晳(そうせき)・牧皮(ぼくひ)の如き者(ひと)は、孔子の所謂狂なり。何を以て之を狂と謂うか。曰く、其の志嘐嘐然(こうこうぜん)たればなり。「曰く、何を以て是れ嘐嘐たるか。(曰く)言(げん)行(おこない)を顧みず、行言を顧みずして、則ち古(いにしえ)の人古の人と曰うも、行何ぞ踽踽涼涼たる」。其の行を夷考(かんが)うれば(其の言を)掩(覆)わざる者なり。狂者又得べからずんば、不潔(不義の行ない)を屑(いさぎよ)(潔)しとせざるの士を得て之に与わらんと欲す。是れ獧なり。是れ又其の次なり。

小林勝人訳注『孟子』下 岩波文庫

 狂というのは、言っていることは高尚だが行動がそれに伴わない人間のことで、古の聖賢を慕っているものの、実際には踽踽涼涼(人に親しまず、人から親しまれない)ような人間のこと。獧は、不義の行いをしない子とだけに汲々とするような人間。そういう人間でも、まだ見所はあるし、自分が何をしているのかの自覚もないままのんべんだらりと人生を過ごしている人間よりはずっとましで、つきあう意味もある、ということでしょう。

 たしかに、この「一般人よりもまだまし」というニュアンスは難しいですね。狂とか狷とか、普通に迷惑な人たちもいますし、昨今では狷、つまり「悪いことをしない」ことに人の注目が高まりすぎて、いいことが出来ないような状態にある状況も、よく見受けられますから。