蜀犬 日に吠ゆ

2010-02-11

[][]読んでもらう手紙のコツ~~三島由紀夫『三島由紀夫レター教室』三島由紀夫全集16 新潮社 20:34 はてなブックマーク - 読んでもらう手紙のコツ~~三島由紀夫『三島由紀夫レター教室』三島由紀夫全集16 新潮社 - 蜀犬 日に吠ゆ

 三島由起夫の手紙論はブログ論に読みかえることができるでしょうか。

 以下引用。新潮社の全集版(1974年)ですので、ワープロで出る字は正字正假名。

三島由紀夫レター教室

英文の手紙を書くコツ
氷ママ子から空ミツ子への手紙

 ご親戚の方がアメリカで、あるアメリカ人の家庭に世話になり、そこへお禮の品物を送つてから文通がはじまり、英文の手紙に四苦八苦なわつてゐる由。

 では、一つここで課外講座として、通信教育を再開しませう。

 しかし、ここに書くことは、權威ある「氷ママ子英語教室」では教へないやうなことばつかりです。英語のうまく書けない人への拔け道を教へてあげるわけです。

 もちろん英語の手紙にだつて、候文形式に似ためんだうな方式もあります。かりに會議に招聘するにしても、

 It gives me great pleasure to extend to you a most cordial invitation to attend the Congress......

 などといふ言ひ方は、

「謹んで會議へご招待申し上ぐる段欣懐の至りこれあり候」

 といふやうな調子ですし、普段の手紙なら、こんな言ひまはしは必要ではありません。

 あなたのは單なる私信なのだし、家庭間のつきあひですからね。

 (一) 手紙はなるべくなら、Iではじまらぬやうにすることです。

 Iではじめれば押しつけがましくきこえるし、自分本位の人間に見られます。

 「私はあなたの手紙をたいへんたのしんだ」

 と書くよりも、

 「あなたの手紙は私をたいへんたのしませてくれた」

 と書くはうが、日本語でも、相手を立てた言ひ方になるでせう。英語だつて同じことです。

三島由紀夫『三島由紀夫全集 16』新潮社
三島由紀夫全集〈16〉小説 (1974年)

三島由紀夫全集〈16〉小説 (1974年)


[][][]蛇の章を読む(その29) 18:54 はてなブックマーク - 蛇の章を読む(その29) - 蜀犬 日に吠ゆ

生れによって賤しい人となるのではない

第一 蛇の章

七、賤しい人

一三六 生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。

一三七 わたくしは次にこの実例を示すが、これによってわが説示を知れ。チャンダーラ族の子で犬殺しのマータンガという人は、世に知られて令名の高い人であった。

一三八 かれマータンガはまことに得がたい最上の名誉を得た。多くの王族やバラモンたちはかれのところに来て奉仕した。

一三九 かれは神々の道、塵汚れを離れた大道を登って、欲情を離れて、ブラフマン(梵天)の世界に赴いた。(賤しい)生れも、かれがブラフマンの世界に生まれることを妨げなかった。

一四〇 ヴェーダ読誦者(どくじゅしゃ)の家に生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行なっているのが見られる。

一四一 そうすれば、現世においては非難せられ、来世においては悪いところに生まれる。(身分の高い)生れも、彼らが悪いところに生まれたまま非難されるのを防ぐことはできない。

一四二 生れによって賤しい人となるのではない。生れによってバラモンとなるのでもない。行為によって賤しい人となり、行為によってバラモンともなる。」

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 その行為の善し悪しの基準が知りたいものですが、なかなか出てこないのですねえ。

 註。

一三六 行為によってバラモンともなる――ジャイナ教でも同様のことをいう。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 こればっかり。本当に、仏教はジャイナ教なのでしょうか。ジャイナ教が仏教なのでしょうか。

一三八 神々の道――devayana. 神々の道とは、『リグ・ヴェーダ』では神々が天界から祭場へ往来する時、或いは死者の霊が神々の下へ赴く道を意味したが、ウパニシャッドになると、ブラフマンの明知を得た個我が身体を脱出してのち、火葬の炎とともに上昇し、日、月の盈(み)ちつつある半ヵ月、太陽の北行する六ヵ月、歳、風、太陽、月、電光、ヴァルナ神の世界を経てブラフマンの世界に到達する(その説明はウパニシャッドによって多少相違する)。そのブラフマンの世界に到達したならば、人はもはやこの世に帰来することがない。これが人間の理想であり、解脱に相当するものであると考えていた。(略)ところで仏教はウパニシャッド以来のこの思想をいちおう承認し、それを道徳的精神的な意味に転化したのである。

 なお原始仏教聖典では「神々の道」に相当するものを「ブラフマンへの道」(brahmayana)としるしていることもある。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 われわれの「大乗」はマハー・ヤーナと呼ばれ、ヤーナは「乗り物」と説明されますが、これをみるに「道」と解してもいいのでしょうか。

一四二 悪いところ――duggati. 漢訳では「悪趣」「悪道」と訳す。普通は「地獄」「餓鬼」「畜生」の三つをいい、そのほかに「修羅」を数えることもある。

中村元『ブッダのことば』岩波文庫

 「悪趣味」「悪路」あたりはその辺でもよく見かけますが、「悪趣」「悪道」は知りませんでした。「天」「人」を加えて六道になるのはまだなのでしょうか。

 身分差別を否定し善事を実行する。簡単なことではありますが、人類は、そんなこともいまだに出来ていない。


[][][][]子路第十三を読む(その20) 15:47 はてなブックマーク - 子路第十三を読む(その20) - 蜀犬 日に吠ゆ

君子は事え易くして説(よろこ)ばし難きなり

 子路第十三(303~332)

327 子曰。君子易事而難説也。説之不以道。不説也。及其使人也。器之。小人難事而易説也。説之雖不以道。説也。及其使人也。求備焉。

(訓)子曰く、君子は事え易くして説(よろこ)ばし難きなり。これを説ばすに道を以てせざれば説ばざるなり。其の人を使うに及んでや、これを器とす。小人は事え難くして説ばし易きなり。之を説ばすに道を以てせず雖も説べばなり。其の人を使うに及んでや、備わるを求む。

(新)子曰く、教養ある君主の下で働くのは働きやすいが、気に入られるのはむつかしい。気に入られようと努めても、道理に叶うのでなければ気に入られないからだ。しかし人を使うときには適当した仕事だけをやらせるから働きやすい。小人物の下では働きにくいが、気にいられるのは容易だ。取りいろうとすれば道理に叶わなくても、すぐ説ぶ。しかし人を使う時には何でもかでも見さかいなく用事を命(いい)つけるから、その下では働きにくいのだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 さいごの「求備焉」を、宮崎先生は意訳して解釈しますが、普通は「完全さを求める」、つまりその人の特徴や能力を見極めず、与えた仕事に合わせて能力を発揮するように要求する、というふうに意味をとるようです。

 この章句も、前章と同じように逆から意味をとって、「下らないおためごかしでいい気になるかどうか、部下の資質を見極めて仕事を割り振ることができるかどうか」で君主の能力が分別される、という風に考えることが出来ます。加地先生は「小人」を知識人ととりますが、この場合は「君子」「小人」はどちらも君主のことであるようです。

君子は泰くして驕らず

 子路第十三(303~332)

328 子曰。君子泰而不驕。小人驕而不泰。

(訓)子曰く、君子は泰(やす)くして驕(おご)らず。小人は驕りて泰からず。

(新)子曰く、教養ある君子は自信があって而も謙虚だ。小人物は傲慢でありながら自信がない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 「泰」は「自信がある」でしょうか、金谷先生は「落ち着いていて」という解釈で、まあ近いと言えばそうなのでしょうけれども、一方は内面、他方は外見上のことを指ししめしています。「泰然」などの語意から考えると、外見的に「落ち着いている」という方がすんなり理解できます。


 何故「落ち着いて」もしくは「自信があって」堂々とした態度なのか、実力がともなっているからなのでしょうね。


剛、毅、木、訥なるは仁に近し

 子路第十三(303~332)

329 子曰。剛毅木訥。近仁。

(訓)子曰く、剛、毅、木、訥なるは仁に近し。

(新)子曰く、かたい背骨がとおり、粘り腰がつよく、田舎風まるだしで、口数の少いのは、そのままで仁に通ずるものがある。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 もちろん、巧言令色鮮矣仁と対にして考えるべきなのでしょう。(巧言令色足恭というのもある。)仁を行う人というのは、ふだんこんな風な様子である、と。

 ところで、「剛毅木訥」のうち、「剛」と「毅」は一文字で名前になったりしますが、二文字で「剛毅」くん、というのは会ったこと無いです。居そうではありますが。しかし、「木」くんや「訥」くんというのはいそうにありませんね。不思議?